「豊後温泉誌に見る別府と鉄輪」
川本 正晴

 大阪の古書店のカタログの中から偶然に見つけた一冊の本。「豊後温泉誌」は、私の別府に対する愛着をより深いものにしてくれた。明治四十一年四月十五日発行のこの本は、一人の疾病に冒された軍人が病気治療のために別府の地の病院に入院して治療に加えて温泉療法をした結果間もなく快癒した。
 この人は奥州会津の出身で名前を加藤十次郎という。明治三十六に別府に来て病気治癒後も明治四十一年に郷里に帰るまで滞在した。
 この間、豊後の地で自らが見聞した名所や数々の温泉との出会いにすっかり陶酔し、感激したのと、精神的な回復力を得られた事に感謝してこの書を残した。と自ら序文に書いている。
 この「豊後温泉誌」に書かれている全てを紹介したいのだが、ここでは、明治三十年代の別府の様子を現代と重ね合わせて想像してもらう為に、本文の一端を紹介したい。
 緒言
 我が邦に於ける温泉の数は甚だ少なくない。さうして其多くは誠に不便なるけい間若しくはけん厳のこう隙から湧出するやうである。従って是を浴せんとする人は、一方ならぬ苦痛と労力とを費して、漸く温泉の湧出する処へ往くの有様である。近来は人文の発達するにつれ、温泉が病あに大なるを効験を有って居ることが世の人に多く知られるやうになったので、各地に於ける温泉場も次第に改良を加へ、夫れに達する道路の如きも、多くの費用を投げうって狭いのは擴くし、険阻を矯め、道なきは新に路を拵へて、人車又は馬車等の往復が出来るやうにしたのである。併しまだまだ全国を通じては、馬も車も通ふことの出来ぬ温泉場が数十ケ所は慥かに在る。だが、斯のやうな目下不便極まる温泉場の今後十年二十年を経たならば、夫れに通ずる立派な道が開かるゝであらうと思ふ。
 多くの温泉の中で、往古から名の聞こへて居るのは、相州の函根、上州の伊香保、摂津の有馬、鹿児島の桜島、伊予の道後、肥前の武雄などが先ず重なるものであるが、其区域の広大と、諸種の疾病治療上より推せば、我が豊後の温泉には遠く及ぶ処でない、否我が豊後温泉はただに我邦に於いて第一位を占める計でなく、恐らくは全世界中之が右に出べき温泉地はなかろうと思ふ、何故かといへば廣ぼう東西七里南北三里の間、地下總て温泉といふても宜しい位、何処を穿っても温泉は滾滾として湧出するし、又其泉質が各所一様でなく、単純泉も酸性泉も塩類も炭酸も硫黄もあるので、実に諸鉱泉一として備はざるものなしといふべきである。こんなことが他の温泉地にあろうか。とても他にはあるまい、大概は一種同類で多くても二種以上の者はないのである。殊に其区域が広く山麓けい間濱海の別なく、何処からでも沸湧するといふことなどは、到底他で見ることが出来ないのであらう、既に述べた通り其泉質が一様同類でないから、随って多様多種の疾病を治療することが出来る。又別府町の東部海浜に湧出する砂湯なるものは、一種特殊の霊泉ともいふべきもので、最も能くをするの効がある。尚又温泉地域内には名勝奇跡が多く、山容水色人目を楽しましめ、心神を爽快ならしむるから、可憐の患者に取っては唯一の療養所たるべく、健康の人に取っては最良無二の慰楽地といふも敢えて過言ではあるまいと思ふ。
 彼、加藤十次郎の凄さは、温泉の効能、泉質、種類は勿論、温泉地のもっている心を癒してくれると言う精神的な効果についても身を持って確信している所だ。
 温泉を科学的、医学的な目で観察している所だ。私が別府の温泉力の凄さに驚嘆するまでに三十年以上掛かった。いや、まだ別府の底力を知り得るには時間がかかると感じている。私の別府に対する思いは決して大げさでなく、当然の流れであることを彼を通して再確認出来た。
 明治の後期に浜脇町と別府町は合併して新しい別府町として発展し始めた。交通機関や温泉行政も次第に充実していった。
 これにつれて多くの文人、墨客が別府に逗留して多くの別府賛歌を残している。彼、十次郎もまた別府の美景をこれ以上ない称賛の言葉で次のように紹介している。
 別府温泉
 別府町は元と浜脇、別府の二ケ町であったのだが、温泉地の発展を図りますます繁栄賑盛ならしむるに、何うしても第一着手として、先ず両町の合併せなければ不可ぬ。と謂ふことになって、遂に其筋の認可を得、明治三十九年四月から二ケ町を一つの町治下に置くことゝし、町名を別府町と命けたのである。
 別府町内にはあまたの温泉浴場が在る、之を一括総称して別府温泉といふのだ。
 別府温泉は元より稀有の霊泉の事故、日に月に来浴者の増加の傾向あったことは、統計の示す事実であったが。未だ普く世人の注意をひくと迄には至らなかった。然るに日露の戦役は端なくも當温泉地をく天下に知らしむるの動機となり、爾来長足の発達をなしつゝ實に驚くべきの殷湿の街衛のと化するに至ったのである。(中略)
 斯くの如く、未曾有の大光栄を負荷するを得たる、稀有の霊泉地を有する別府町は九州の一角、大分県速見郡の東南端に在って、前に銀波ただよふ函たん湾を隔てゝ四国の山嶽を雲煙のに望み、後ろには天女の舞うが如き豊後芙蓉を控へ、東、西、北の三面は鶴見、四極、扇の諸峰を始め、きくたる山脈相連りて遠く国東半島に及び、市街の東端海岸には明治三年中、巨額の資費を投じて埠頭を建設し以て港口を開き、其所に燈台を置いて来港諸船の危険を防ぐの用に供へたので、日々船舶出入の頻繁なことは、関西諸港中一二に位するであらう。市街は南北に沿ふて波光嵐影の間に、縦横相望み風光の明媚なる、宛然造化の畫図を展ぶるにも似、加ふるに、大気は清鮮、気候は温和で、酷暑の時でも華氏寒暖計九十度を昇らず、極寒の候も尚ほ四十度を下がることがないから、避暑避寒共に好適である。
(注釈)函たん湾は別府湾のこと 四極山は紫津山とも言って現在の高崎山 豊後芙蓉は豊後富士とも言って由布岳のこと 華氏九〇度は摂氏に換算すると約三十度 華氏四十度は摂氏四度になる。
 別府温泉の中でも特に湯治温泉として鉄輪温泉は人気があった。別府湾を俯瞰する高台に位置している鉄輪は最高の眺望が得られて、湯治客の心を癒してくれていたに違いない。