「古城俊秀監修・松田法子著『絵はがきの別府』を読む」
中山 士朗

 私が東京から別府に移住して来て、この四月で丸二十年が経った。
 私が終の棲家として、原爆亭という草庵を結び住まっている場所は、別府湾を一望する高台にあり、鉄輪、亀川温泉がともに近い。
 たまたま先日、大分合同新聞の「灯」欄に、別府に移住して来た理由を書いたばかりであった。それは、小学二年生(昭和十三年)のときに広島から船で別府港に着き、大桟橋の直ぐ向かい側の木造三階建ての大黒屋に泊ったときの話であった。そのとき鶴見園や地獄めぐりをしたが、そのことを宿題の作文に書いて提出ところ、学校の「めばえ」という綴り方文集に選ばれた。それが潜在意識にあったからであろうと書いた。その話を楠町の古くからある小料理屋で知人に話しているとき、おかみさんから「大黒屋さんは、家から一軒おいた先でした」と言われて驚いたものである。後で店を出てその跡に行ってみたが、昔日の面影を伝えるものは微塵もなかった。けれども私の脳裏には、海岸通りに建ち並んでいた、木造の高層旅館街の記憶が今も鮮明に残っていた。
 このたび刊行された、古城俊秀氏の膨大なコレクションの中から六百枚が選ばれた「絵はがきの別府」を読みながら、写真絵はがきを眺めていると、幼少時代の記憶の中に深く埋没していた風景が、たちまちよみがえった。
 アントニン・レイモンドというすぐれた建築家が設計した東京女子大の寮が二〇〇六年に取り壊されることにジャーナリストの藤原房子さんが反対・保存の運動をしていた。ある建築家が「寮は記憶の継承」という言葉を使って、関東大震災前に建てられた、建築史の上でも名建築と言われた建物について説明したということを人づてに聞いた。そのとき、チエコのヤン・レツルの設計による広島県産業奨励館(後に原爆ドーム)を思い出した。彼の設計した東京での多くの建物は、関東大震災で崩壊したが、唯一、聖心女子大の校門が現存しているということも教えられた。
 こうしたことがらを思いながら古城俊秀氏監修、東京大大学院の学術支援専門職員で、都市史と建築史が専門の松田法子さんの執筆のこの書物をひもとくと、そこには湯煙の歴史に根ざした、記憶の継承ともいえるものが深く刻まれているのが感じられた。
 畢竟、日清・日露戦争の明治から、日本の近代化をめざした大正から昭和の初期にかけての歴史を縦糸にして、膨大な写真絵はがきのコレクションを横糸にして織り上げられた別府の歴史ともいえるが、良くも悪くも近代化を進めた、日本の風景がその背景に横たわっているのが感じられた。
 しかし巨視的、微視的なレンズでさまざまに切りとられた空間を同一寸法の写真絵はがきに収めているが、このおびただしい枚数を製作した発行者、それを長年かかって収集したコレクター、それを厳選し、学術的に構成した都市史・建築史の専門家が三位一体となって作り上げた、貴重な、湯けむりの〈記憶の継承〉碑とも思える。
 このなかで大正末期から昭和の初期にかけて、冒頭に記したように日本各地に近代的な様式の建物が次々に生まれたが、別府でも、東京中央郵便局、逓信省の建築で知られる吉田鉄郎の設計による別府市公会堂などが残っている。
 とりわけ私が関心を寄せて読んだのは、第三章の「軍の療養地」として書かれた個所であつた。日露戦争以後、日本の温泉場の様相は大きく変わったが、別府は傷病軍人の療養地として重要な温泉場でもあった。
 私の住む近くの亀川温泉には海軍病院があり、戦争の末期、鉄輪温泉の旅館は、陸軍病院別府分院の療養所として徴用されていた。その鉄輪温泉は、以前、NHKの「二十一世紀に残したい日本の風景」で〈別府の湯煙〉として全国二位になったが、このほど都市景観大賞(国土交通省)に選ばれたのである。(作家)
   (書評紙「図書新聞」1912・9・15号より転載)