「いで湯坂」
河野 忠之
- いで湯坂の命名は昭和六十年に亀の井バス横のアーチを改築する際に、通り会で公募し命名した。それ以前は鉄輪中央通りと呼ばれていた。
- 前々回「地獄原温泉」の稿で亀川からの辻馬車のことにふれたが、いで湯坂と名前付く以前は、通りに亀の井バスの別府大学経由「別府駅」行きの定期バスが運行されていたが、狭い通りで接触事故が多く横断道路を迂回するようになった。戦後一時期は亀川駅に行く路線もあったと記憶する。
- 平成十七年秋句集(53号)の河野善行前温泉山住職「鉄輪小記」の「水車小屋」には、亀の井から下に流れる水路があり、水車小屋が点々とあったと記されている。私の記憶では、井田の稲葉電気から陽光荘までは開放された河川であった。記録はないが、昭和二十九年前後に土の道をコンクリートに舗装した時に暗渠にされたのではないかと思う。
- 鉄輪東の鉄輪歯科クリニック藤井哲雄理事長が現在地の上側に昭和31年に藤井歯科医院を(先代の日野鮮魚店から120坪の土地を譲り受け)開業したが、その土地は現在80坪になっている。少なくなった40坪は当時の鉄輪の世話役から懇望され、大分交通の通る県道と市道(いで湯坂)に寄付したとのことである(平成18年の石畳工事でも、現在の鉄輪歯科クリニックの道路側を交通安全のために隅切りして道路に提供された)。
- 舗装された当時、いで湯坂に面する多くの家でも拡幅のために土地を提供したそうである。
- その市道「いで湯坂」は、全面コンクリート舗装であったが、渋の湯の南側は急勾配で今のように車の性能も良くない時代で、滑り止めのために鉄平石が埋め込まれていた。
- 昭和36年には街路灯が設置された。(湯あみ祭り復活)
- 最初のアーチが造られたが、「温泉おこし」の鉄輪製菓さんと杵築の「智恵美人」中野酒造さんの協力があった。戦前の写真を見ると、通りの入口の両側にコンクリート製の門柱が写っている。
- 昭和39年九州横断(やまなみ)道開通。
- 56年墓地路面に鉄輪案内図が作られ、57年にカラー舗装される(花も嵐も寅次郎)撮影。
- 59年に鉄輪愛酎会(天領焼酎・鉄輪焼酎)発足。
- 60年に街路灯の全面改修。いで湯坂通りと命名、アーチが新設された。国民保養温泉地指定。鉄輪共栄会「鉄輪基本構想・鉄輪温泉の再生のための地域ビジョンを求めて」刊行。
- 平成4年「鉄輪俳句筒・湯けむり散歩」
- 12年「鉄輪湯けむり散歩・町歩き」
- 14年 湯けむりライトアップ開始
- 18年 鉄輪市営蒸し湯改築オープン
- いで湯坂石畳工事7月開始
- 23年 地獄蒸し工房オープン
- 藤井理事長の(想い出)
- 私が鉄輪に来たころは、湯治客も多く共
同温泉に入る人が、朝早くから夜遅くまで、下駄の音をカラコロと響かせてさせていました。
- 原稿をまとめるのに多くの人にお話を聞きましたが、60年前から現在までの記録も少なく、推測もありますので、ご存知の方はお教え下さい。昭和人として、きちんとした記録を残したいと思います。