「地獄原温泉」
河野 忠之

 薬師温泉・原の湯・地獄原薬師温泉ともいう。市有区営。鉄輪東六組(元南鉄輪村(大字鉄輪風呂本150番地2)にある。明治初年からあった。
 昭和22年に本田巳太郎氏らの世話で、浴場を改築。
 浴場の東側には、九州頭取・常盤崎新六(加藤新六)の墓(明治26年3月建立)や亀川からの客馬車の停留場跡がある。
 『別府温泉湯治場大事典』(安部巌著、昭和62年12月刊)による資料には、本田精氏談とある。
 地獄原温泉のある場所は、通称地獄原と言われる(鉄輪の字図にはこの地名はない)。近くには双葉荘、松屋別館、陽光荘、サカエ家、つるや、ひょうたん温泉、国東荘などの大きな噴気孔(地獄)が在る、鉄輪東部の地熱地帯の中ほどに位置する。
 昭和十年朝日村が別府市に合併後の、昭和十六年別府市が規定した市営温泉三三ヶ所の中には薬師温泉とあるが、市内に薬師温泉と呼ばれた所が、駅前の高等温泉、明礬の薬師温泉、富士見町薬師温泉など、今日新聞の小野記者の話では市営は明治三五年に建てられた明礬の薬師温泉で現在の鶴壽泉の上側にあり、岡本屋の土地であった。明礬の人は、滝蒸しのある風呂と呼んでいた。鶴寿泉の横に記念碑が建っている。
 地獄原温泉の近くに住み、子供のころに入浴していた後藤哲孝さん(昭和3年生)の話では、昭和初期には入り口が今の北側でなく南側(現吉賀医院・旧渡辺医院側)にあり、いでゆ坂から入ってひょうたん温泉に行く道の途中に数段降りる石段がって、現在の吉賀医院北側の里道に真直ぐにつながっていたそうである。当時入浴していた人々は、の湯と呼んでいた。
 後藤さんの話では、亀川からの客場車の待合所が在り、川田さんが客馬車を運行していた。(湯けむり散歩五三集の河野善行・温泉山住職の記録の中には、亀川の藤内という人も客馬車を行うとある)
 明治二六年建立の、常盤崎記念碑の裏手には牛馬の洗い場があり、今と違い当時は荷馬車や客馬車、農耕の牛馬が鉄輪の中にも多数飼育され、農家と兼業の旅館でも飼っていた。それらの牛馬を、温泉の横で手入れしていたと言う。
 戦後、温泉の上横には土岡骨董店があり、風呂の管理を任されながら商売をしていた。近くに湯治宿が多くあり、お客さんが古物を楽しむ場所でもあったが、平成五年に経営者が高齢のため店が閉められ、今は温泉組合の事務所になっている。
 地獄原温泉の少し上、現在の陽光荘は大正十二年に先々代佐原秀太郎  氏が、鉄輪で最も早く上総掘りで温泉を掘削し「鉄輪地獄」の名称で昭和十三年に結成された「別府地獄組合の専務理事でもあったが、昭和一五ころに交通機関や交通事情などの変化で地獄の営業をやめた。それ以降は貸間旅館「鉄輪地獄」になり現在の陽光荘として継承されている。
 また平成五年四月まで陽光荘の上側に鉄輪郵便局があった。
 別府史談会顧問の入江秀利先生の資料に、
弘化四年(1845)四月鉄輪を吟行で訪れた蝶亭起友の手記に
・・湯滝のみなもとなる海じごくを見むとて、僕をゐて 朝まだきより杖突走らしつつ松寿精舎を門前よりふし拝みて、二百歩ばかり行きける道の傍に、熱湯湧出る事幾処とふを知らず。そが中に紺屋地ごく、坊主地ごくの名あり。ここらすべてぢごく原というかや・・・からも当時鉄輪一帯が広く地獄原ととらえていたようである。
 愛酎会が主催する「鉄輪俳句筒・湯けむり散歩の投句場所の中でも湯治客の投句が最も多い温泉でもある。
 前回は筋湯温泉を書いたが、今回の地獄原温泉についても文献が少なく、湯の町鉄輪の代表的な共同浴場についての思い出や歴史についてご存知の方はお教え下さい。
 由佐(元京大教授)先生は、自然の恵みである温泉資源のことを考えると、共同温泉を大切にしてこそ、未来につながる温泉地であると説かれています。
(参考)
昭和22年薬師温泉給湯契約
     (給湯者ひょうたん温泉河野マツ氏)
       組合長 本田巳太郎(鉄輪製菓)
☆昭和29年改築
      昭和32年組合長 伊東靖(双葉荘)
      昭和39年組合長 佐原晃善(陽光荘)
      昭和47年組合長 本田精(鉄輪製菓)
      平成4年組合長  佐原晃善(陽光荘)
平成6年12月  改築現至る