鉄輪おちこち(その十九)地 蔵 の 里
中山 士朗


 大寒のさなかにもかかわらず、私は鉄輪の「地蔵マップ」を製作された河野忠之さんに案内してもらって、鉄輪のお地蔵さん巡りをした。
 そのことを思い立ったのは、一遍上人を祭った温泉山・永福寺を訪れた時、境内の一隅に小さな童地蔵に囲まれたお地蔵さんを見出し、心が和んだからである。
 その時、昔、佐渡に旅行した際に、土産物店で小ぶりな石造のお地蔵さんを見つけ、そのあどけないお顔に心惹かれ、抱いて東京に帰った日のことを思い出した。
 そして、井伏鱒二さんの『厄除け詩集』の中の「石地蔵」の詩が浮かんだ。
 「風は冷たくて/もうせんから降りだした/大つぶな霰はぱらぱらと/三角形のだいこんの葉に降りそそぎ/そこの畦みちに立つ石地蔵は/悲しげに目をとぢ掌をひろげ/家を追ひ出された子供みたいだ/(よほど寒さうぢゃないか)/お前は幾つぶもの/霰を掌に受け/お前の耳たぶは凍傷だらけだ/霰は ぱらぱらと/お前のおでこや肩に散り/お前の一張羅のよだれかけは/もうすっかり濡れてしまった」
 この詩集は、昭和二三年に刊行されたが、被爆して顔にケロイドの瘢痕を残した私は、日がな一日鬱屈した気分で暮らしていたので、この詩は心に染みた。
 ずっと後年になって、井伏さんの著作数冊を携え、杉並区清水町のご自宅に伺い、署名のお願いに上がった。
 後日、受け取りに行った時、井伏さんが部屋から出てこられ、
「これから外出するところなので、途中まで一緒に行きませんか」
 と言われた。
 荻窪の駅までご一緒したが、緊張のあまり何を聞かれ、どう答えたかはっきりとは覚えていない。インバネスを羽織り、ステッキを突きながら、駅の構内に向かってゆっくりと歩を進められる井伏さんの後ろ姿を見送っていると、その風貌姿勢からは石地蔵さんを彷彿とさせるものがあった。
 私は、駅前から下井草行きのバスに乗って家に帰ったが、着くなり包みから本を取出してみると、驚いたことにはその中の『取材旅行』という題名の本の見返しに、毛筆で「石地蔵」の一節がしたためられ、署名、押印されていた。
 その後、井伏さんに私が作品を発表した雑誌や本をお送りすると、いちいち葉書に批評を書いて下さった。時には、二枚続いた葉書が届くこともあった。そのころ、井伏さんは『黒い雨』を雑誌に連載されていた。
 永福寺のお地蔵さんに会ってからは、湯煙ただよう鉄輪温泉の町中を散策していると、一遍上人像やお地蔵さんの姿が目に止まるようになり、その呼び名も観音さん、お大師さん、お薬師さん、田のさんとさまざまであることを知った。
 今回のお地蔵さん巡りでは、町の辻や組合・市営・区営の各温泉、旅館、神社、寺院、地獄などで、多くのお地蔵さんにお会いすることができたが、同時に滝湯跡の岩に刻まれた日光・月光両地蔵はじめ、観世音菩薩、不動明王、阿弥陀如来の像や、親鸞上人像、六地蔵、道祖神をも拝むことができた。その多くは製作年代が不明であったが、中にははっきりと、永禄、安政の年号が読めるものもあった。
 古来、お地蔵さんは仏堂に安置されるより村の入り口、峠、畦道、四辻といった野山、路傍に多く、また墓地の入り口や墓地内などの野外に安置されているのは、どんな願いごとでも頼める菩薩として認知されているからであろう。
 それにしても、お地蔵さんには数え切れないほどの専門的な名前がついている。「とげ抜き地蔵」「水子地蔵」「安産地蔵」「目洗い地蔵」「田植え地蔵」など際限がない。以前、横断道路の歩道を下っている時、北中の町角で「交通安全守り地蔵」と名のつけられたお地蔵さんを見たことがあった。しかし、私は鉄輪の風景と相和したお地蔵さんの温顔から、おしなべて「ゆけむり地蔵さん」と呼んでいる。こうした地蔵信仰は、民衆に多くの親しみを与え、苦しみを救っているのである。
 鉄輪はまさしく地蔵の里であり、人々の信仰の篤さにも包まれて、心癒される場所になっている。
 そして、路地裏や坂道をたどりながらの地蔵巡りの道は、同時に鉄輪の文化遺産をたどる道でもあることも、噴気に包まれながら思った。
 いつしか私は被爆の心も解け、遠い日の古里に帰っていた。