「鉄輪のこと(その一・暗渠)」
河野 忠之

 六月二十日に古希を迎え、老境に入った。
 数年前に史談会が「別府の古い道 歴史散歩」を刊行したが、その中には鉄輪の温泉街と周辺をつなぐ古い道についてはあまり記されていない。
 今なら私より一回り年長の先輩の記憶を聞くことが出来るが、昭和以前大正・明治を語る古老はいなくなった。
 かつて「鉄輪俳句・湯けむり散歩」の随筆に、温泉山永福寺の故河野善行前住職(明治四十四年)が、永い病床で記した昭和初頭の鉄輪の情景の中に、「いで湯坂」(命名は昭和六十年)にあった沢山の水車のことを書いている。
 戦中に生まれ戦後に育った私の記憶には、木炭バスが通り湯治客も多く、今の「いで湯坂」のあちこちに水路や暗渠の蓋があったことをはっきりと覚えている。
 昭和五十一年の台風十七号での水害では、鉄輪の縦にある道路は河のような状態になった。我が家は裏に水路があり、敷地全体がくぼ地になっている。その水路は隣接のみなとや旅館の下が暗渠になっているので水嵩の増した濁流があっという間に床下浸水をした。(その時みなとやの建物と塀の間の空間は川になり、その下隣の安楽屋の敷地内に流れる水路が旧蒸し湯にむかって、水を2メートル余り吹き上げた)当時私は消防団員で、災害出動をしていたが、一時帰宅すると、父から他所ごとではないと言われた。
 このような大水はそれ以前にも度々あり、その原因の一つに、海地獄の上にある村山(旧朝日村村有林)の水路の分岐堰を、大雨が降るたびに北鉄輪に水が行かないように鉄輪側に堰を切って、流した事によると言われた。昭和五十年には、度々の被害を受けていた井田町の筋湯通りに、かなり大きい排水溝の工事が行われた。
 昭和五十一年の水害の後、昭和五十三年に計画され、五十四年から三年間に県道の、鉄輪上の上冨士屋アパートから大谷公園横の八川(平田川上流)の間317mに深さ175センチのボックスカルバートが別府市により敷設される大工事が行われた(工費五千万)ことにより、それ以降鉄輪の町には水による被害はない。
 今回このことを確認するために、多くの人や役所関係・図書館などを聞いてまわったが、文字の記録もなく、人の記憶も薄れ。役所にも市民が知ることの出来る資産台帳のようなものもなく、移動の多い部署では調べようがなかった。実に残念である。
 以前、大正時代の朝日村の村役場の所在地を確認のために、登記所で地番により登記簿の閲覧をしたことがあるが、今回と同じように行政の建物の登記は一切なく、調べることができなかった。地域の財産である共同温泉(特に旧蒸し湯建物の図面)や集会所などは、市民の記録がないかぎり消えていくしかないのであろうか。記憶でなく記録として残しておきたいものである。
 最後に資料を頂いた浜田博市長のお骨折りに感謝します。
   平成24年8月(その一)