「〈鉄輪〉通信」
中山 士朗

 『湯けむり散歩』冬句集第八二号に、「学友再会」という題で、六五年ぶりに鉄輪の湯治宿で会った旧制中学時代の友人・田頭清秀君の話を書かせてもらった。
 そのきっかけは、ここ数年、年に何度か中野屋さんに湯治に来ている田頭君の長女・淑江さんが、「湯けむり散歩」に投句していて、母親の豊子さんとともに特選句に選ばれ、同時にカレンダーに掲載されたという話からはじまったのである。
 しかも、後で分かったことであるが、淑江さんは、湯治に来るたびに永福寺に立ち寄り、ご住職の母上から話を聴くのを無上の楽しみしにしているようであった。その行き帰りに、温泉閣の主人を見かけ、時折、立ち話をする間柄になったようである。
 その温泉閣さんから、先ごろ電話があって、日本経済新聞の文化欄に載った「ソ満国境少年が見た死線」という題の随筆について教えられた。執筆者は、田原和夫となっており、「ご存知の方ではないかと思いまして」ということだった。
 温泉閣さんは、これまで私の作品を熱心に読んでくれ、旧制・広島一中の校名や昭和二〇年八月六日の広島での被爆の話が書かれていると、すぐに連絡をして確かめてくれた。
 以前にも、温泉閣に宿泊していた九十歳の女性が、私と同じ広島一中の同学年で、動員先は異なっていたが、爆心地近くの建物疎開作業に出動して被爆し、行方不明となった角井利春君の母親・千代子さんだということが分かったのである。自身も被爆し、肩から腋下にかけて、また下着の紐の跡にケロイドが鮮やかに残っていた。
 彼女は、
「あの日の朝、腹具合が悪いようなことを言っていましたので、休ませてやればよかったと思っていますが、それもこれも、寿命だと今では諦めています」
 また、
「食べ盛りを代用食や配給でしばられ、十分に食べさせてやれなかったことが、何にもまして思い残りです。十分な現世を見るにつけ、本当にすまなかった、とただただ詫びるだけです」
 と語った。そして別れ際に、
「現在は平均寿命が伸びていますので、百歳まで生きようと思っております」
 と言われたが、その言葉通り百歳になった今もお元気な様子で、かつて幾たびも訪れた鉄輪温泉での湯治の日々を懐かしんでおられるという。
 話を元にもどすと、田原和夫君は小学校、中学校を通じての友人である。彼が随筆に書いているように、父親の仕事の関係で北京に生まれ、満州国成立後はハルビン、そして首都新京(現長春)で幼少期を過ごしたが、小学五年生の時、父親の郷里である広島の親戚の家に預けられ、私が通っていた市立中島小学校に転入し、そして昭和一八年四月に広島一中に進学した。
 昭和一六年からはじまった太平洋戦争(当時は、大東亜戦争と言っていた)も、次第に戦況が不利になって来て、私たちが二年生になった秋からは、学徒動員令によって軍需工場に通い、兵器生産に従事しなければならなかったのである。
 田原君のクラスは、広島市の西郊外にあった「広島航空」という飛行機の部品を作る工場に配属された。先ほど述べた角井利春君もその軍需工場に通つていたのである。最初に書いた田頭清秀君と私は、市の東郊外にある東洋工業(現マツダ)に配属されていた。
 けれども田原君は、米軍による内地への空襲激化を心配する父親から、新京に呼び戻され、昭和二〇年五月には新京一中三年生に転入したが、ただちに一三〇名の学友とともに東満の軍都東寧に送られた。ソ連との国境線にある農場で勤労奉仕するためであった。
 広島航空に通っていた田原君たちのクラスは、原爆が投下された当日の朝、爆心地に近い場所で建物疎開の作業をしていて、四二名全員が死亡した。これについて、田原君は「私は難を免れたが、満州に戻ると地獄が待っていた」とこのたびの随筆に書いていた。田原君の言う地獄とは、異国での三〇〇キロにわたる敵からの逃避行、捕虜となり、餓死寸前の体で明日をも知れぬ命におびえた日々のことであった。
 この体験を『ソ満国境・15歳の夏』(築地書館)としてまとめて出版したのは、一九九八年である。
 これを基に、松島哲也監督による映画化が決定していたことは、広島一中の同期会があった折に聞いていた。新聞を読んで田原君に電話すると、「撮影は八割方終わっていて、残るロケが政治問題の影響で中断している」とのことだった。日中国交正常化四〇周年を記念する作品なので、一日でも早く撮影が開始されることを望むのは、私も同じである。
 ここまで書いた時、原爆が投下された時刻にそれぞれがいた場所についての思いがよぎった。同じ東洋工業に通っていながら、田頭君は工場で被爆し、私は爆心地から一.五キロ離れた建物疎開作業地で被爆して熱線による火傷を負った。
 広島航空に通っていた角井君は、爆心地から七五〇メートル離れた建物疎開作業地で被爆したが、集合場所に焼け焦げた上着、弁当箱、所持品だけを残して、地上から姿を消した。田原君は、原爆が投下される四ヶ月前に広島を離れたが、満州での苛酷な体験を、記憶に刻まなければならなかったのである。
 戦争は、一瞬にして人々の生死を分かち、生活を根底から破壊してしまうことを、私たちは身をもって体験したのである。
 もはや寄る年波から考えて不可能だとは思うが、生き残った三人が鉄輪で会うことができればと、はかない夢を描いている。