「湯治宿で聞いた話」
中山 士朗


 鉄輪温泉は古くから四国、中国地方からの湯治客の多いところであった。
 わけても戦後は、戦争によって災難をこうむった人々の心身を癒すための、保養の地でもあった。しかし、近年は訪れる人の層も変り、インターネットで予約してくる若い泊まり客が増えて来たと聞かされた。
 今年八月六日の広島原爆記念日には、別府市内の小倉にある原爆センターに宿泊した被爆者は、ただの一名であった。
 戦後六十四年ともなれば、こうした現象はごく当たり前の話であるが、同じ被爆者としてはわびしい気持ちになる。
 そんな折、愛媛県川之江町(現・四国中央市)から湯治に来ておられたご夫婦の方から、縁者が広島で被爆して郷里・川之江町にもどられた時の話を聞かせてもらった。
 被爆されたのは、ご主人の義理の伯父に当たる方で、当時、市内昭和町に住んでいたが、原爆が投下された時刻、爆心地にほど近い広島市役所に勤務中であった。
 その翌々日に、宇品―今治経由で無蓋貨車に乗せられて川之江駅に辛うじてたどり着き、通りがかりの人に連絡を頼んだ。
 連絡を受けて祖母、母、当時九歳のご主人の三人で、急遽、大八車の荷台に筵を敷き、その上に蒲団を敷いて駅に迎えに行った。
 「両手を幽霊のように前に出し、手首を折り曲げ、身体全体に焼け剥がれた皮膚が垂れ下がっていました。子供心にも凄惨な感じがしました」
 とご主人は語った。
 その後で、十薬でこしらえた民間治療薬の話を聞かせてもらった。
 十薬は、ドクダミの生薬名である。北海道の南部から本州、四国まで日本全土の陰地、湿地に自生する多年性草本である。薬効としては、はれもの、できもの、みずむし、利尿が挙げられている。生のドクダミには強いにおいがあるが、このにおいの成分には抗菌性、抗かび性があるといわれている。花期は、五〜七月である。
 裏庭に生えたドクダミの葉をとり、それを蕗の葉に包み、その芯は無花果の葉にくるんで両方を細い針金で組み合わせ、消し炭で焼いた。そして練り上げてこしらえられた黒色の粘った膏薬は、貝殻の容器に移された。
 包帯のない時代だったので、さらしを患部の大きさに合わせて裂き、膏薬を塗布したが、それを剥がす時、皮膚の組織が付着していたために激しい痛みを訴えたという。
 この話を聞きながら、当時、同じ状態にあった私は、リバノールガーゼを交換するために傷口から剥がされる時、「止めてくれ、殺してくれ」と泣き叫んだのを思い出した。元市内の外科病院の婦長だった人は「身体にウジをわかしてもええの」と私を叱りつけ、自身も額に汗しながら押さえつけるようにして、消毒液をしませた脱脂綿で傷口を消毒し、ガーゼを交換した。ビタミンCの注射が打たれて治療が終った時、私は息も絶え絶えに横たわっていた。
 そして、蚊帳の中にいても私の体から発散する腐臭と滴り落ちる血膿を求めて襲いかかって来る、蝉のように大きく太ったハエの爪で傷口を引っ掻かかれ、その痛みから「ハエが食べるよう」と喚き、家人を呼ばなければならなかった。
 間では、母が人づてに聞いて来てこしらえた、キュウリを擦り下ろして絞った汁を貼り薬に使用しているところを婦長さんに見つかり、
 「キュウリを貼ったところでどうなりましょうか」
 と不興を買ってしまった。
 医薬品が不足した時代に、民間療法が試されるのはいたし方のないことである。
 井伏鱒二氏の『黒い雨』の中にも、おまじないとしてのお灸、白血球を減らさないためにトマトや鉢植えのアロエの葉を剥がしてしきりに食べる話や、ドクダミを煎じて飲む情景などが出てくる。キュウリの絞り汁もあった。
 川之江町ではドクダミの膏薬に加えて、滋養をつけさせるために、親戚の者たちが遠出して魚や肉を買い求め、栄養補給に努めた甲斐があって、二ヶ月後に治癒した。
 明治二十年生まれの人であったが、東京で九十三歳の時に亡くなられたそうである。
 私には様々なことが思い出される、湯治客の話であった。