「雨に歌えば」豊の作り委員 工藤はつみ


 どこの町もどちらを向いても車、車の昨今で、行き交う人々も忙し気の顔ばかり。静かに考え事をしたり、心を落ち着けていたい時など、本当に良い場所が少ないと思える。
 近年妙齢になってちょくちょく鉄輪の街に出入りする様になった。知り合いが小さな貸間宿を営んでおり、泊まる事も多くなっている。鉄輪の街の、ふところの感触がわかってきたところだろうか。特に冬場、宿はもちろん、街全体にほわっと湯気の温もりが漂っていて、居心地満点。薄着で過ごせるので肩もこらない。温泉はいつでも入れて一日たっぷりとし、悩みや病気で神経がこんがらがったり、気力がなくなったような人にとって、まさに特効薬の感がある。ピリリとした神経の糸がゆっくりとほぐれていくのがよくわかるのだ。二、三日ただぼんやり過ごすだけでも素敵。
 しかし何と言っても感じ入ってしまうのは、小雨にけぶる鉄輪の街を遠くから見る時。これはいつの時節でも、霧雨でもこぬか雨でもいい。一面灰色に染まってしまった景色の中に、白く、幾筋も、まっすぐ立ちのぼる湯けむり。狐の尻尾か魔女おホウキか、にょきにょきにょっきり。しかもくっきりと浮かびあがってくるのである。
 いつもは賑々しい街並みも、うすぼんやりとシャ幕を下ろした舞台のような、大きなキャンパスの絵のようでもある、静かな一服の遠景をしばし楽しむ。そしてまた車を走らせ、そのシャ幕の灰色の世界をつき抜けるように鉄輪の街の中に入っていく。
 やがて我に帰らせるかのようにゴオーッと噴気の唸り声をあげながら、宿々の屋根の上から横から力強い現実が迫ってくる。よく見ると足元の側溝からも、もくもくと湯気。傘を並べて浴衣姿で歩く人々までなつかしい。小雨のそぞろ歩きも似合っている。
 ここでは、人の間をゆっくりと車がぬって通る。小雨にけぶる日、時間が余ると、つい鉄輪物語をききたく車のハンドルを回してしまうのである。