「休道他郷多苦辛」ヒット歌謡酔華 吉良穎子


 五年前、留学生として中国の旧満州から別府に来ました。びっくりしたことは道路の狭いことだった。
 小さなアパートの一室を借りて、一人暮らしが始まった。毎日、畳敷きの部屋に立って窓の外を眺めると、左は海岸、右は山。
 別府市全体が見渡せた。中国大陸から来た私は、「窮屈だなあ」とひとりで溜息をついた。しかし、右側の炊煙のような煙は私の好奇心を抱かせた。隣に住んでいる七十才ぐらいのおばあさんに聞くと、
 「あの煙はなあ、湯けむりちゆんで。わかるかい」と大分弁で教えてくれた。
 四月、ちょうど清明時節雨紛々の季節、日本国の誇りの桜花が満開時である。細雨の中、私は傘をさして、別府大学の正門を出ると、左へまっすぐ坂を昇っていった。すると目の前に町の姿が展開するが、不思議なことに、その光景にはいつも心惹かれてしまう。
 湯けむり、古い旅館などが軒を連ねる雑多で狭い路地、浴衣を着ている観光客がどこでも見られる。
 昔の湯治客用の貸間制度が発達した、近代的ホテルの群立の中で、その風情をまだ残している。湯けむりの中で緑と花があふれ、極楽のような「地獄」を感じた。高い所に登って市内を見下ろすと、鉄輪温泉は別府湾に向け、なだらかな逆扇形スロープを広げている。大平山の麓、ざっと二平方キロ、草だけをまとった扇山の背後に紫にかすむ鶴見岳がそびえ、真っ白い湯けむりとあいまって、一幅の絵を構成する。
「奇名驚地獄 勝境檀蓬莱 一浴宵増暖 三巡春満懐・・・」
 昭和三十年に中国学術視察団長郭沫若は別府を訪れて「地獄」をうたったがその気持ちがわかった。
 「鉄輪」を「てつりん」と読むと思っていた。なぜ、「かんなわ」と読むか。国文科の私は迷った。「豊後風土記」に「玖倍理湯の井郡の西にあり、此の湯の井は郡の西の河直(かわなお)山の東の岸にあり」とある河直山が転じて、「鉄輪山」となったとされている。
 温泉の起源は建治二年、時宗の開祖一遍上人によって開発されたと伝えられている。明治十七年鉄輪村となり、明治二十二年朝日村、昭和十年別府市に合併された。
 鉄輪という町は湯けむりの里、旅情をそそる湯けむりの町。この町の住民は観光意識の多様化のに対応して、再生への町づくりにも積極的に取り組んでいる。五年間この町に住んで、この風光明媚、山紫水明の湯の町が好きになった私は日本の俳句と短歌がわからないので、やはり漢文で書きたい。
 陰 時 蒸 気 接 雲 雨
 晴 日 皎 龍 上 青 天
 鉄輪の至る所から湯けむりが立ち上り、その下に温泉が数多く散在し、湧出している。この大自然の恵みは、国民の日常生活にどんなにすばらしい条件を与えてくれたことでしょう。勤勉な日本人、よく働く日本人、神様がそのくたびれた体を温めてくれているのではないか、と私は考えることがある。
 私はこの温泉と離れることができなくなった。風呂に入った時には、よく広瀬淡窓の七言絶句を呟いている。
 休 道 他 郷 多 苦 辛
 同 胞 有 友 自 相 親
 紫 扉 暁 出 霜 如 雪
 君 汲 泉 流 我 拾 薪