貸間旅館の楽しみ
斉藤 雅樹


 鉄輪の魅力の一つが貸間旅館である。
 鉄輪を歩くと、筋のそこここに「入湯・貸間 ○○屋」と書かれた看板に出会う。かしま、とは文字どおり部屋を貸すだけで、賄いは原則として付かない。自分で炊事し、自分で布団を引く。で、一人一泊三千円〜四千円程度と手頃である。炊事が面倒だな、と感じるかもしれないが、八百屋や魚屋に恵まれていて食材調達に不便はない。食材さえあれば天然レンジ「地獄釜」があるのだ。温泉蒸気が四六時中、勢い良く噴き上げており、ザルに入れた魚貝や野菜を仕掛ければ、見る見るうちに立派に蒸しあがる。まな板や皿、冷蔵庫も自由に使えるので生活に不便はない。
 というのは、私は貸間旅館で一ヶ月過ごしたことがある。自宅の改築で、さてどこに仮住まいを設けるかと考えた時、迷わず鉄輪の貸間と答えが出た。地元にいるとなかなか泊まる機会はないもので、まして長逗留など夢のまた夢、この好機を逃す手はないと勇んで乗り込んだ。
 さて、住んでみると、色々と発見がある。まず驚いたのは、昼夜を問わずゴウゴウと温泉蒸気すなわち「地獄」の音がすることである。私の居ついた部屋は窓から隣宿の泉源と噴気が見える位置にあり、ゴウゴウという蒸気と、それに金具が煽られるカラカラという音が鳴りっぱなしであった。うるさいかなと心配したが、なんの全く気にならずに家族四人、毎晩快眠であった。むしろ、ゴウゴウカラカラは慣れると鈴の音のごとく風流にすら感じ始めた。同じ音でも仮に工場から発すれば騒音と感じるだろうが、そこは自然の音、地球の息吹は気にならないものである。
 言うまでもなく、湯にはいつでも入れる。これは思った以上に素晴らしい体験であった。もちろん、別府市民は近所にもれなく共同温泉があり、入ろうと思えば徒歩で入れる環境にある。温泉好きにとってはこれ以上、望むべくもない環境である。しかし、貸間旅館は温泉が本分であるゆえ、さらに条件が良い。当たり前だが、足に履物を通すことなく、いつでも入れる。自宅に湯を引くお宅なら同じかもしれぬが、どうも温泉給湯会社は民家用には敢えて薄い湯を配したがるようで、色々なお宅に好意で入湯させて頂くが、概して薄めの湯である。これにはもっともな理由があり、民家では風呂掃除にそうそう労力は割けないし、配管も太くない。濃い湯をそのまま給湯するとあっという間に浴槽は付着物だらけになり、管路も詰まる。湯から発するガスで建物や電化製品がやられる。従って、毎日入る自宅湯には成分があまり含まれない薄い湯が喜ばれる、という訳である。
 一方、鉄輪は湯治場である。湯が売りものであるからして、成分を多く含む。貸間はもともと湯治のための施設であるから、当然湯が良くないと勝負にならない。濃厚な湯をメンテナンス気にせず毎日、昼夜を問わず堪能できるのは実に幸せであった。宿の湯に少々食傷すると、数十歩も足を運べば共同温泉がある。ヨソの宿の湯にも入れる。泉源が違うと湯の個性も微妙に違う。濁り湯と透明湯、酸性とアルカリ性、お好み次第という訳である。これは全く贅沢の極みであった。
 朝起きると、まず地獄釜に米を仕掛ける。次に、洗顔がわりに湯につかる。湯から出て、身支度をして、また地獄釜に卵と野菜を仕掛ける。数分後には、おかずとご飯が同時に蒸しあがる。野菜でも魚でも、塩かポン酢の薄味で十分である。地獄蒸しはウマ味が強く、シンプルなままが美味しい。地獄で米まで炊けるのかと驚かれるが、少々柔らかめになるが確かに炊ける。これはこれで風味があって美味しい。
 一日が終わり、夕刻にもなれば、草履をひっかけて隣の魚屋に行く。別府湾の小海老がザル一盛り百五十円ほどである。宿から持ってきた竹ザルに入れてもらい、裏木戸をくぐって地獄釜に直行、海老を仕掛ける。一分で鮮やかな赤色に蒸し上がる。酒のつまみに最高である。魚貝はどれも地獄蒸しに向くが、意外な発見は生の落花生である。宿の方に教えてもらい、八百屋で早速買いこみ、地獄釜で蒸した。ピーナツと枝豆の中間のような歯ごたえと風味が絶妙ですっかり病みつきになった。すっかりいい気分になり、再び温泉で身を清め、清めた身に温泉成分をしっかりと塗りたくり、ゴウゴウカラカラを子守唄に夢路に発つ、という暮らし。
 唯一、閉口したのは蚊であった。排水路が温かくて生育が良いのか、やたら大きいのである。小ぶりのカゲロウかと思いきや血を吸いに来るので、あわてて蚊取り線香を用意した。
 貸間旅館の一ヶ月、宿には色々の人がやってきては去っていった。年配の方が中心であるが若者も外人旅行客もいる。そして、ロングステイの湯治客も確かに存在する。毎年、梅雨どきに二週間来るという熊本のご夫婦もあった。「熊本からここまでに温泉はいくつもあるけど、私達は鉄輪がいいんですよ」とのこと。湯に癒されるだけではない、湯煙情緒、地獄蒸し、宿の人情味あふれるもてなし全てが鉄輪の癒しの力である。
 さて、最後の意外な発見であるが、毎日さんざん地獄蒸しを堪能し、すっかり贅肉がついたかと案じたが、逆に体重は三キロほど落ちていた。地獄蒸しは油を使わない料理であるからか、はたまた温泉でエネルギーを消費するからか。女将さんいわく、鉄輪の湯はダイエットにもいいのですよ、だそうな。