「二人の慶応生まれ」中山 士朗


 鉄輪に住む、古老と呼ぶにはいささか早い年齢の人に、愚問を呈したことがある。
「新別府を、鉄輪地区に含めてもよいのでしょうか」
 すると、
「鉄輪は天領、あちらは久留島藩の飛び地というちがいはありますが、昔は同じ朝日村でしたから、まあ鉄輪といっても差し支えないでしょう」
という裁定であった。
 したがって私は自分の頭の中に、新別府という町を勝手に鉄輪界隈に編入してしまった。
 新別府に住む人たちから叱られるかもしれないが、これはあくまで私の地図上での区分なのでお許し願いたい。
 私は数年前に瓢箪(ひょうたん)温泉の創設者・河野順作氏を、また一昨年には旧日本陸軍の日出生台演習場の初代主管・横田穰氏のことを調べるために取材して歩いたが、その過程において、両者の生き方があまりに酷似していることに驚かざるを得なかった。
 しかも二人の生年月日や没年を知るにおよんで、いっそう関心が深まるのを覚えた。
 河野順作氏は私と同じ広島県の出身であり、慶応二年三月一日、広島県御調(みつぎ)郡野串村で誕生した。十六歳で大阪に出て鍛冶屋の丁稚(でっち)奉公から身を起こし、独立して機械鍛冶屋を営んだが、後にプロペラ専業メーカーの鋳工所に転進、発展させた人である。
 瓢箪温泉が造られたきっかけは、夫人の慢性リュウマチの療養を目的とした、隠居所の建設にあった。
 大正十一年に鉄輪百五十九番地の土地で温泉の掘削を行い、湧出を見た。そこに野趣あふれる瓢箪型の浴槽が作られ、瓢箪温泉と名付けられたが、それは崇拝してやまない太閤・豊臣秀吉の旗印、千成瓢箪にあやかったものであった。
 私がもっとも関心をそそられたのは、昭和二十年五月に空襲の目標になるという理由で、その頃、鉄輪の新名所として評判になっていた通称「瓢箪閣」が、軍の命令で強制撤去させられたことであった。
 この瓢箪の家は、氏の還暦を記念して昭和三年朝日村鶴見字八川百五十一番地に建てられた、白いペンキ塗り七階建ての瓢箪型の家であったが、瞬く間にその姿を消し、あたり一面に無残な残骸の山ができた。氏は解体されて行くひょうたんの家を、涙を浮かべながら見守ったという。その時取り壊された構造物の一部が、当時永福寺に隣接して設営された、別府陸軍病院・鉄輪分院の衛兵所の門に使用されていたとも聞いた。
 その頃広島市内の中学三年生であった私は、動員先の軍需工場から派遣されて、市内中心部の強制疎開家屋の取り壊し作業に従事した体験から、その痛みが直接伝わって来るのであった。
 河野順作氏は、昭和二十五年十二月八日鉄輪にて永眠。享年八十四であった。
 一方、横田穰氏は、私が早稲田大学露文科の学生だった時分の恩師・横田瑞穂先生のお父上であった。その晩年のお住まいが、新別府にあった。先生もたびたびその実家に見え、戦時中には二人のお嬢さんを東京の家から疎開させておられた。上のお嬢さんは朝日小学校の先生として教鞭をとられ、下のお嬢さんは、三年生に転校入学した。
 今その住居の跡は、住む人もなく廃墟と化していて、当時の別荘建築の面影をわずかにとどめた敷地内には、栴檀の木が往時を偲ばせ亭々と聳えていた。
 氏は慶応元年四月十八日、徳島県麻植(おえ)郡川島町で生まれ、画家を志して上京し、円山派画家・川端玉章の門に入ったが、後に方針を変え、志願して軍人となった。
 陸軍教導団、陸軍砲工学校で教育を受けた。そこでは高等数学、力学、弾道学、馬術、馬政学、英語、独逸語を学んだが、後に東京帝国大学の独逸人教授についてコンクリート工学を学んだ。このことが氏の将来に大きな影響を与えた。
 日露戦争時、旅順港背面に二十八センチ砲を短期間で据え付け、日本軍を勝利に導いた話は、後世に伝わった。
 陸軍少佐で退役した後の明治四十三年五月、請われて日出生台演習場の初代主管になったが、水資源確保のための森林造営を発意し、達磨画を描き、それを頒布しながら造林の資金にした。後に全国的にもまれな一大森林を達成したことで、大分県の原野造林の先覚者と言われるようになった。
 昭和十年七月、退官して現在の地に新居を構えて余生を送っていたが、昭和二十五年五月六日永眠、享年八十五だった。
 この両者の生き方を検証していて気付かされたのは、私意を超えて人々に希望を培う事業を起こすことをいったん決めると、それまで内部に蓄積されたノウハウを駆使し、全身全霊で事に対処していることである。
 そこには「郷に入りては郷に従う」という意識も当然あったが、近隣の人との融和、開発、向上に意を注いだことがきわめて印象深い。
 二人には、それぞれ住民によって建立された顕彰碑があり、大分県に遺した功績は大きいものがある。
 そして、ここには動乱の幕末から明治、大正、昭和を生きた人の息吹がある。