「古木に会いに」中山 士朗


 鉄輪ごよみの末尾に印刷された、「湯けむり散歩句碑めぐり」の絵図を眺めていると、句碑の近くに、ムク、シイ、ツバキなどの古木が存在していることに気付かされた。
 この絵図には載っていないが、以前、冨士屋旅館さんの庭内にある樹齢二〇〇年の、県特別保護樹ウスギモクセイを拝見させて頂いたことがある。
 入り口の石段脇には、   四十年見ざりし宿の銀木犀 けなげにくろく繁りて立てり  と書かれた木碑が立っていた。
 作者は、長年、冨士屋旅館を定宿に療養をしていた鹿児島壽蔵氏であった。氏は紙塑人形による国の重要文化財保有者であり、アララギ派の歌人でもあった。昭和五十三年に冨士屋旅館を再訪した折に詠んだもので、当時八十歳になっていた。
 ほかに、   わがからだまだ柔らがず 木犀の匂いくる部屋に鍼をうたせつ  の短歌も残している。
 いうなれば、私が鉄輪界隈の古木に会いに行った、最初の樹木であった。最近になって、私は鉄輪上にある椋の大木に心惹かれるようになった。亀川方面から「いでゆ坂」に向かって行く途中の左側露地奥に、高く聳え立つ巨木が目についたからであった。
 もともと椋の木は、ニレ科の落葉高木で、樹皮は灰色褐色、枝は横に広がり、小枝は細く伸びる、とものの本には書いてあるが、私が見に行った時は、枝が切られていた。
 しかし、近くに寄って葉が繁った幹の先端を仰ぐと、木の霊気のようなものが伝わってきた。
 先端部分は枝分かれしていたが、枝というよりも、太い幹が分岐したような感じで、基の部分を残してそれから先は切り取られていた。
 古くからこの地に住む人の話によると、「枝幅は十四、五メートルはあったのではないだろうか」という話だった。
 木の先端が、すぐ近くの四階建の建物とほぼ同じ高さにあるので、一〇メートル近くはあるのではないだろうか。目の高さの幹まわりは三・一五メートルほどあった。
 この椋の木が植わっている一帯は、大正末期から昭和の初期にかけて、新別府温泉土地株式会社が、速見郡朝日村大字脇ノ前及び鬼山地内の耕地整理として手がけた事業地であった。
 この地域は、申請書に記載された内容によれば、西は山岳に接し、東は遥かに豊後湾(当時の表記、現在の別府湾)を望む地にあり、西から東にかけては急勾配をなし、北より南にかけては緩い勾配の地勢であった。
 そのために、畑地を均するために切り取りの手法が用いられ、その砂は盛り土に充用された。
 そして、後に朝日温泉経営地として、一区画二〇〇坪平均の分譲地が、三十区画売りに出された。
 因みに、新別府温泉土地株式会社の代表取締役社長の千壽吉彦氏は、現在、別府市商工会議所会頭である千壽健夫氏の父に当たる。
 椋の木の植わった土地は、もっとも鉄輪温泉寄りにあり、現在、根元のまわりが高さ一・五メートルの石垣で囲われているのは、傾斜地に生えていたために、切り取りが行われ、その土を盛って均されたせいであろう。
 当時は枝葉を広げ、風雪に耐えた大木の風格を示していたにちがいない。同じニレ科の落葉高木に榎があるが、江戸時代には、塚を作り、その上に榎が植えられ道標に用いられたという。
 家康が日本橋を起点に設置したのが、その始まりとされているが、椋の根元の石囲いを見ていると、何となく塚の上に植えられた感じがしないでもない。椋の木の果実は黒く熟し、果肉は食べられる。晩秋に落ちた実は、干し葡萄のような甘さがある。
 この椋の木の近くで幼少時代を過した、現在九十歳半ばを越した老媼(ろうおう)は、「私が朝日小学校に通っていた頃、鉄輪には大きな椋の木がありました。私たち小学生は、登下校時には、椋の実を拾って食べていました」
 そして、椋の実は、青い物を拾って来て米糠に入れ、熟れるのを待っていたりしたこともある、と語ってくれた。
 物のない時だったので、子供の頃はそんなことをして食べていたようであった。椋の木の印象については、 「あまり高くて、太い木だったので、小学生の私たちが登るのは、大変難しいことでした」
 また、「何しろ幼少の私たちでしたから、いつも椋の木を見上げていましたので、実際の木の高さよりも高く感じていたのかもしれませんね」と椋の木を仰いだ。
 当時、この辺りは畑ばかりで何もなく、劇場が一軒建っていたという。劇場が建つ前までは、近くの道の両脇に埋葬地があったが、先述の脇ノ前耕地整理施行地区として申請される際、遺族による墓地改葬許可願が併せて申請されていた。大正十四年四月三十日に別府警察署長によってその申請は許可されていた。当時は人が亡くなっても土葬で、そこに埋葬されている人達の骨が掘り上げられ、他の場所に移された時の光景が、子供心にもはっきり記憶に残っている、と老媼は語った。
 こうした話を聞いていると、  椋拾ふ子に落葉掃く嫗(おうな)かな(虚子)  邸内に祀る祖先や椋拾ふ(杉田久女)  椋の実に旅も果てなる一日かな(楸邨) の句が思い出される。
 また、梟(ふくろう)の巣があった話など聞くと、  椋の実や師に数々の禽(とり)の詩(三田登美子) の句があることも自然にうべなわれる。
 この椋の木の樹齢はどのくらいになるのだろうか。私は老媼の話から、二〇〇年ぐらいではないかと推定している。
 椋の樹齢について書かれた本があることを友人から教えられたので、借りて読んでみた。
 三重県津市芸濃町椋本には、樹齢一五〇〇年(推定)の椋の木がある。坂上田村麻呂の家臣が、椋の木の下に草庵を結んだのが地名の起こりと言われている。
 その記録によると、  樹高  一八メートル 幹周り 九・五メートル 指定  国指定天然記念物(NHK出版協会『神の木・民の木』)となっている。
 先頃、大分市の名木に指定された野津原の加藤さん方のサザンカは、樹高四メートル、根もとの幹まわり二・三メートル、樹齢約二〇〇年とあったので、それから推定して三〇〇年ということも考えられる。
 後日、私は老媼が「あっちん山」と呼んでいた大観山に行き、〈湯けむり展望台〉から椋の木を眺めた。
 すり鉢状の底にある鉄輪の町からは、無数の湯けむりが立ち昇っていたが、その向こう北西部の高台に、伽藍岳を背景に聳え立った椋の姿があった。
 展望台のパネル写真にも、その姿は写っていた。