鉄輪おちこち(その1)
中山 士朗(日本文芸家協会々員・日本エッセイスト・クラブ会員)


 大分合同新聞の三月九日付の夕刊に、  
  芽起こしの雨に育ちしゆのけむり
 という倉田紘文氏の句があった。
これは、「選者の作品」として五句掲載されたうちの一句である。
 長年この地に住み、日頃から湯けむりを眺めている人でなければ、とうていこのような秀句は詠めるものではない。
 氏はNHK教育テレビの俳壇はじめ多数の俳誌、カルチャーセンターなどの講師、選者をつとめておられ、きわめてご多忙であるにもかかわらず、その合間に、鉄輪俳句「湯けむり散歩」に寄せられた句の選もしておられるのである。
 私はふとしたことから、この「湯けむり散歩」の編集者である河野さんと知り合いになり、エッセーを頼まれるようになった。
 けれども七年前に東京から鉄輪近くに移住して来た私には、この句の持つ深い洞察力のようなものはない。
 したがつて、鉄輪のおちこち、また折ふし感じたことを書きとどめる以外に方法がないように思える。
 先日、竹西寛子さんの連作エッセー集「山河との日々」を読んでいて、鉄輪温泉のことが書かれた箇所に出会い、郷里を同じくし、ほぼ同年代の頃に訪れた、別府の昔の風景が不意によみがえった。
 竹西さんは、就学の前後に別府温泉を訪れていた。六十年経った現時点で、地図を見ながら「地獄めぐり」をした日の記憶がたどられていた。
 そして、鉄輪温泉の地獄について子供心に感じたことが記されていたが、それが後年になって海地獄の青の深さ、青の妖しさに惹かれる原因にもなっている、と物静かに語っていた。
 私は小学校二年生の時に、両親に連れられて姉と共に別府温泉を訪れ、鶴見園に行ったり、地獄めぐりをした記憶があるので、読みながら共通の思いがあった。
 それから六十年余経つた現在、竹西さんが書かれていた竜巻地獄から西南に約五百メートルほど離れた高台に、私は終の住処を定めて余生を送っているのだ。
 その陋屋の二階の窓から、別府湾を広島港に向かって航行する白い船体と航跡を眺めていると、私は遠い日の、焼尽してしまった故郷との繋がりを感じないではいられない。
 そして、時折、坂道を下りながら、四季、天候、時刻それぞれに応じて自在に変幻する湯けむりに、心惹かれているのである。