鉄輪おちこち(その10)
中山 士朗


 最近、鉄輪温泉についてさまざまな関心が寄せられている。
 NHKの「二十一世紀に残したい日本の風景」(全国二位)、環境省の「かおり風景百選」に選ばれた『別府八湯の湯けむり』がその代表的なものであるが、その他に鉄輪温泉名物の「地獄蒸し料理」、薬草のセキショウ(石菖)を石室の床に敷く「蒸し湯」、ウオ―キングツア−「鉄輪湯けむり散歩」など枚挙にいとまがない。
 このように人々の鉄輪への視線が集まり、路地裏への足の運びがしげくなるのは結構なことである。気のせいか、いでゆ坂を散策していると、近頃では若い女性の姿が増えたような気がする。鉄輪の町に活気が出て来たということかもしれない。
 私が別府に移り住むようになってから、この四月でちょうど十年になる。古い表現で言えば、ひと昔の話になる。諺では、
 郷に入っては郷に従う
 という。
 これは、住んでいる土地の風俗・習慣にはすなおに従うのがよい、という意味のことのようである。中には、「物事にかまはぬ人ぞうらやましき」といわれるようなわが道を行く人もいるようだけれど、「さりとも里に入りて里に従ふならゐはぜひなき後悔」と諭される人もいた。
 さいわい、別府は懐の深い、移住者を受け入れることにわだかまりのない人々が多く、縁もゆかりもない私は、お陰で大勢の人に支えられて安穏に暮らししているというのが実情である。
 話が少し横道に逸れてしまったが、郷に従うのが当然の理ではあるが、昭和一桁生まれの私は、どうも悪い癖で、あの忌まわしい戦争の影響を現在も引きずっているせいか、現実の時間から遊離し、戦争中の風景を内部に想像してみる悪い癖がある。
 この精神構造は、郷に従うどころか、せっかく人々が古き良きものを深訪し、ゆるやかな時間の流れに身を委ねようとしているのを妨げる、逆しまな行為かもしれない。
これについては、私が 「鉄輪おちこち」というテ―マで書いていることに免じてお許し頂きたい。
 そもそも「おちこち」というのは遠近ということであって、時間的にも空間的にも遠い、近いということである。
 私がそうした自分の心境に気づいたのは、国の文化審議会が有形文化財した、鉄輪の冨士や旅館の前に立っ多時であった。
 冨士屋旅館は鉄輪温泉の老舗旅館で、一八九八(明治三十一年)に普請され、そのうち母屋,前門、石段、石垣が登録されたものである。
 明治以降の歴史的景観が、たたずまい全体にしっとりたおした情感を漂わせていた。
 庭内には、樹齢二百年の県・特別保護樹木ウスギモクセイが聳えていたが、それについて入口の石段脇には、
 四十餘年余見ざりし宿の大木犀
 けなげに黒く繁りて立てり
 人間国宝で歌人の鹿児島壽蔵の詠んだ歌を記した木碑がたっていた。
 昭和十六年に上梓された氏の第二歌集「新冬」の鉄輪淹留吟に、
 わがからだまだ柔らがず木犀の
 匂ひくる部屋に鍼をうたせつ
また、
 木犀のかをりききつすがすがと
 此処に落着きておるも暫しか
 の歌が収められていることから推察して、その前年あたりに冨士屋旅館に滞在していたのではないだろうか。
 私は冨士屋旅館の美しい屋根の線と、玄関の式台にはめ込まれた木組みの扉、それらの古びた調和に魅了されながら、ある感慨にとらわれたのであった。    (続 く)
 挿入の短歌につきましては「日本温泉協会報」平成七年七月号・中村昭著『温泉百話』を参照しました。、