「プランゲ文庫に見る鉄輪」
中山 士朗


 先の戦争、と言っても六十四年も昔になるが、敗戦国となった日本は連合国軍総司令部(GHQ)の管轄下におかれた。
 そのために、占領下の日本国内で出版されるすべての新聞、雑誌、書籍、そのほか町内会誌、社内報におよぶあらゆる出版物がGHQの民間検閲局により一 九四五年から四年間にわたって検閲を受けた。
 とりわけ原爆、旧軍隊に関する記事にはプレスコードが設けられ、厳しい統制と検閲がなされた。
 当時、GHQに勤務していたゴードン・プランゲ博士は、占領下の日本国内で検閲された出版物を米国に持ち帰り、この六〇万ページにもおよぶ膨大な文書 が、メリーランド大学に所蔵されたことから、プランゲ文庫と呼ばれるようになった。
 大分でも平成一八年一二月に「大分プランゲ文庫の会」が発足し、以後、大分県内の様々な貴重な資料や文章が堀り起こされ、話題になっている。
 こうした大分県内に関する資料は、渡米して実際にメリーランド大学を訪れ、プランゲ文庫を見学して来た会の代表者・白土康代さん、事務局長・内田はつみさんによって確認された。その報告書を見て、一一〇点もある資料の中に、鉄輪に関係する二誌が含まれているのを知った。
 「松葉杖」、「ゆけむり」いずれも鉄輪温泉にとって歴史上欠かせない、六十年前の風景を今に伝える誌名といえた。
 「松葉杖」は青年団鉄輪支部文化部、「ゆけむり」はゆけむり同人社によってそれぞれ編集、発行されたものである。いずれもガリバン印刷であった。
 私は会からコピーされた二誌を借りて読みながら、自分の年齢と重ねて寄稿した人の年齢を考えてみた。
 終戦の時、私は十四歳であった。
 私が通っていた旧制中学でも、昭和二十三年には「ゆうかり」という校内誌が発行された。その冊子には教師や生徒の新しい時代に向けての小論文や、小説、詩、短歌、俳句、随筆などが収載されていた。
 私は、文芸部員から頼まれて短い随筆と俳句を載せていたが、驚いたことにはその冊子がプランゲ文庫に収蔵されていて、私の書いた随筆が検索できた、と白土さんから教えられた。しかも、「風鈴」という題名まで判明したのは驚くべきことであった。
 この経緯は、当時の大分春秋社から発行された「大分春秋」に私と同姓同名の人が執筆していたことから始まったもので、以来、何となく会とのかかわりが生じたのである。
 私は読み終えて、「ゆうかり」に共通する熱気のようなものを感じた。そこには、敗戦によってもたらされた、民主主義という新しい時代に向けての息吹と戸惑いが感じられた。戦時中の思想、言論の抑圧からの解放を求める若い人たちの言語が、紙面にあふれていた。食糧をはじめあらゆる物資が不足する環境の中で、アメリカン・ドリームを思い描いていたものもあったが、ひっきょう人間性の回復が色濃く漂っていた。
 しかし、新しい時代に向けての行政の在り方、医療を通じた、これからの鉄輪温泉の在り方などを真摯に語った文章もあった。泉質を分析して、効能別に温泉治療を施す長期滞在型保養所を構想する、現代でも立派に通用する小論文もあった。
 私は鉄輪の事情に詳しい原 寛孝さん、河野忠之さんのお二人に会い、執筆者探しをはじめた。すると、会員に市会議員の名前があったり、印刷所や広告を出した店などが、意外に近い場所に存在したことが判明したりした。そして、様々な人と人のつながりがあることを教えられた。
 私たちがようやく探し当てたご健在の執筆者は、吉岡(旧姓・矢野)勝行さん、大住(旧姓・平尾)幸子さんの二人であった。吉岡さんは当時の、青年団朝日支部の団長で、現在は市内大畑で園芸を営む、大正十三年生まれの人であった。
 大住さんは、現在、鉄輪にある万力屋別館の女将で、昭和二年生まれの人であった。
 二人は短歌、詩、随筆などを書いていたが、その作品からは、昭和二十三年当時の鉄輪の風景や人々が何を思い、何を考えていたかを知ることができた。
 個別に会ったが、二人は申し合わせたかのように、六十年前に書いた自分の作品が示されると、懐かしさのあまり、沈黙を保ちながら真剣に目を通し、その 後で、なぜアメリカに現存しているのか、と驚きの表情を露にした。その理由を聞いて二人は表情を和らげたが、六十年経って自分の書いたものにゆくりなく再会し、懐かしさと驚きが交錯したものに変った。
 そして、私は二人の作品の背景となったものをたどりながら、戦後を生き抜いた人たちの長い時間を思った。
 私は「松葉杖」の誌名の由来になった場所を案内してもらった。以前、湯治に来ていた人が完治して、不要になった松葉杖を奉納して帰ったが、それが堆く積まれていたという話を何かの本で読んだことがあったので、確かめておきたかった。それに、この冊子を松葉杖にして、新しい時代に進んで行こうという編集者の言葉もあった。
 鉄輪に住む、二、三の人からの話では、戦前から昭和四十五年にかけて蒸し湯の釜の上に積まれていた、と教えてもらった。
 案内してもらった場所は、新しくできた蒸し湯のポケットパークの中に復元された、一遍上人開基の蒸し釜の遺構だった。
 一方「ゆけむり」には、湯煙の未来を考えなければという文章があったが、こちらの方は、近年になってNHKの「二十一世紀に残したい日本の風景」で富士山に次いで二位になっていた。また、環境省の「かおり風景百選」には『別府八湯の湯けむり』が選ばれている。
 当「ゆけむり散歩」の第六二集に、京都大学名誉教授の由佐悠紀氏は、
 「現在、湯けむりの数がもっとも多い鉄輪を中心とする地域では、この第二次温泉開発ブームによって、噴気・沸騰泉の数が六〇本強から一三〇本へと倍増した。すなわち、現在の湯けむりの半数は一九六〇年代に生まれたと言える。」
 と書いておられた。
 そして色々なデータを分析して、「限られた時間に生成される温泉の量は、有限である」と警告されている。
 今、大分県では重要文化的景観の一つとして「別府の湯けむり」の選定を目指していると聞く。
 私はこの「松葉杖」と「ゆけむり」の誌名から、戦争末期に鉄輪の一四軒の旅館が陸軍病院の仮病棟に借り上げられ、傷病兵の宿となった頃の風景をふと想像した。