鉄輪おちこち(大谷探検隊記念碑)
中山 士朗(日本文芸家協会々員・日本エッセイスト・クラブ会員)


 大谷公園内の、「光瑞上人遷化之処」と刻まれた大谷別邸跡の石碑のことを書いたので、今回はその左隣に建てられた大谷探検隊の記念碑について触れてみたいと思う。
 碑の表裏面へ埋め込まれた、銅板印刷による碑文、隊員の顔写真、探検隊の行程図、光瑞上人が記した「西域考古図譜序」などをメモ替わり写真に収め、亀川商店街にある鶴田写真館に現像と焼き付けを頼みに行った。
 それを受取に行った時、若主人が、「この光瑞上人という方は、すごい人だったそうですね」と写真を私に渡しながら云った。
 訳を聞いてみると、「近くの西光寺の住職さんに頼まれて、銅板印刷に用いる写真を撮りに行きましたので」ということであった。
 この時の、若主人のすごい人という言い方には、まれにみる超人といった賞賛の方の言葉のように私は感じた。
 その壮大な後送による国家的事業ともいえる中央アジア探検に、西本願寺の財政を圧迫するほど自由に資金を運用し、蔵を空っぽにしたという事実だけをとらえて、良く言わない人もなかにはいた。当時の本願寺の予算は、京都市とほぼ同額であったと言われ、疑獄事件とのからみもあって、大正3年、その責任をとって門主を退いたが、その時は39歳であった。
 しかし、いずれにしても本願寺教団が生んだ、二人の巨人のうちの一人であることにはまちがいない。一人は八代門主の蓮如で、今一人は二十二代門主の鏡如(光瑞)であった。
 この碑の正面の「仏教東漸の道を求めた青年たち」と題された碑文には、別府で晩年を送った光瑞上人の五十回忌に際して、その偉業を顧み、平成9年10月5日に碑が建てられたことが記されていた。
 1902年から1914年の間に3次にわたって、仏教東漸の跡を調査する目的で、中央アジア学術探検隊が大谷光瑞によって派遣された。そのことが碑文に記されていたが、それを取り囲むようにして、光瑞を中心に、14人の青年の顔写真がはめ込まれていた。
 碑の裏面は、大谷探検隊踏査ルートならびに光瑞自らが大正4年3月に記した「西域考古図譜序」の銅板が、御影石の台に埋めこまれていた。
 その最後のところに『此地に遺存する教論、仏像、仏具等を蒐集し、以て仏教教義の討究及び考古学上の研鑽に資せんとし、若し能ふべくんば地理学、地質学及び気象学上の種々なる疑團をも併せて氷塊せしめんと欲したり(後略)』とあった。
 私は読みながら、マウンテン・シックに悩まされ、また幅15センチほどの道を岸壁にしがみついて移動中、50センチほどの岩棚が欠けている場所に遭遇した際の、光瑞や隊員たちの息づかいが生々しく聞こえて来るような気がした。体のバランスを崩したり、また頭上からの落石に触れれば、500メートル下の谷に墜落死するのはまちがいなかった。彼らは、「なまんだぶ、なまんだぶ」と唱えながら、難所を通り終えたという。
 大谷探検隊のことを忘れない記念碑が、鉄輪の湯けむり漂う、安らぎの里に存在しているのもむべなるかな、と私は思っている。