石菖
柴田 秀吉


     わたしゃ鉄輪 むし湯の帰り
       肌に石菖の 香がのこる
                 野口雨情
 煙る雨で鉄輪の町は白い噴気につつまれている。石畳の坂を登りつめると蒸し湯がある。湯番のおばさんに入湯料二百円也を渡し、板戸を開けて石室に入ると、暗闇と強烈な熱気につつまれた。かすかに石菖の香りがする。足元を手でさぐると、熱でちりちりに乾いた石菖がちらばっている。蒸し湯は、床に青葉の石菖をたっぷりと敷いてこそ効能があるのだが。
 闇の中に一カ所、うすぼんやりした電球の明かりがある。その下に女性が一人横になっている。顔と胸をタオルで隠しているが若い人のようだ。手も足も胸も、おそろしいほど痩せている。暗闇に眼がなれて来た。蒸し湯の壁は昔のままに野づら(自然石)で積まれ、内部は八畳くらいで、ゆっくり九人は寝れるだろう。石風呂の中は、私と痩せた女性と二人だけだ。強烈な熱気で呼吸がつらい。タオルを口にあてて、やっと人心地がついた。すると、女の人ががばと跳ね起きて外に飛び出した。熱気に我慢の限界がきたのだろう。私もそのあとを追って石風呂から脱出した。
 蒸し湯に石菖を敷くのは昔からのものだった。石菖は鎮痛・健胃の薬効があり、古くから浴用にも使われてきた。五月五日の節句に菖蒲湯を使うのは魔よけもあるが薬効があるのだ。石菖はこの頃が開花期で精気に満ちている。花は乳白色の棒状、若いツクシの頭のように細長く立ち上がっている。セキショウとショウブはサトイモ科の親類で、薬効は野生の石菖のほうが強い。葉を引きちぎると強烈な芳香を発する。
 春と秋に川釣りをする私は、ことしも谷川に入りアブラメを釣った。この清冽な渓流に菖蒲は自生している。大分県は山の傾斜地の水田が多い。別府・内竈の千枚田もそれである。この水田に水を引く井手(水路)に石菖を植えている。井手のまがり角など、水勢で土手がこわれやすい場所に石菖が根を張り、壁になって水路を守っているのだ。
 鉄輪の蒸し湯を開いたのは鎌倉時代の一遍上人だそうだ。一遍は四国道後(河野水軍の一族)の出身だから、古くから開かれていた道後温泉の湯治場づくりの知識があったのかもしれない。鉄輪蒸し湯は、内壁は野づら(自然石)、外壁は切り石、あわせた壁の厚さは1メートル以上ある強固なものだ。外周りは18メートルほどの六角形のトーチカ状である。しかし、一遍開基の頃は内側の野づら石だけだったかもしれない。江戸時代の儒者脇蘭室(帆足萬里の師)の『函海魚談』に、
 南鉄輪蒸し風呂・・材を構へ草土を覆ひて窟の如くし・・・
とあるから、外回りの切り石はその後補強したものであろう。
 昭和19年から51年まで、32年間、鉄輪蒸し湯の湯番をした松下初子さんは次のように語っている。
「昔はね、とても人気があり、24時間営業でしたよ。蒸し湯に入るお客さんは一日でざっと千人。長い行列をつくって3時間くらい待つこともざらですね。体の芯(しん)から温めるのと、体の下に敷く石菖(川ショウブ)が薬になって、体によいからですよ。今ではなぜか入湯客は減って一日に60〜70人ぐらい。寂しいもんです。昔の建物はまるでお宮のようだったが、今の鉄筋コンクリートでは効き目がないような気がしてね。(大分合同新聞『別府に生きる』)
 ずいぶん以前に、私はこの蒸し湯に入ったことがある。真っ暗な石室はどこかで静かに湯が流れる気がした。その時、突然、「あんばいはどうかえ」という女性の声がした。私は真剣おどろいて、石枕から頭を落とすところだった。闇からの声である。「四谷怪談」のお岩さんのような、弱々しい声もこわい。しかし、私に「具合はどうか」と語りかけてきたのは野太いしわがれ声で、顔が見えないのである。「巴御前」は木曾義仲の愛する女性で美人である。しかし彼女は、鬼にも神にもあおうという「一人當千の兵」で、敵の大将「おん田の八郎師重」を鞍の前輪に押しつけ、頚ねじ切って捨てたほどの豪の女である。暗闇のなかの顔の見えない女性が「巴御前」のような猛烈な人だったら大変だ。この細首をねじ切られてしまう。私は蒸し湯から飛び出し、逃げた。
 石菖を入浴に使うのは薬用としてだけではない。冷たい青草が熱い湯場の温度を調節するのである。前述の脇蘭室の「函海魚談」にも、
「古市(別府市亀川)と云うには、潮退きたる時、烟たつ。ここを穿ば温泉湧出、人々自ら沙を左右に推て石菖を敷・・・」
とある。また、徳富廬花の『豊後路』にも次のようにある。
「襷がけした世話女がバケツで砂をかいて、その凹みにあらく石菖を編んだ青薦を敷いて・・。」
 これは、別府北浜、楠浜の砂湯風景である。これらの記述からみると、鉄輪の蒸し湯にかぎらず、北浜、亀川の天然砂湯でも石菖を使っていたのである。しかも、葉を筵に編んで敷くほどに、昔の別府の人は湯治客に対して思いやりがあったことがうかがえる。
 五月青葉の石菖こそが鉄輪蒸し湯にふさわしい。奥別府の渓流、郊外の千枚田の井手に石菖はいっぱいある。
 しかし、これも河川の人口化と休耕田で石菖は枯れつつある。棚田を復活させ、井手を蘇らせ、石菖を育てるといい。神楽女湖は石菖沼として最適だ。そうすれば、青い石菖のたっぷり敷かれた蒸し湯で、湯治客は廬花さんのように「温い。好い気持ち」だと喜ぶだろう。
 いま五月の緑は、黒ふすぼりをあげて燃え、精気を放っている。浅緑・深緑・黄緑・赤緑・白緑。多彩な緑の光と影が交叉する。桐の木は、てっぺんの淡紫色の花が空に吸いこまれてしまう。高村光太郎は、「青くさき深緑の毒素は世に満てり」とうたった。これは病人の発想である。彼の精神が健康だったら、「生き生きと新緑の生命は五月の光に満ちている」とうたっただろう。(『すわらじ』第53号2002年4月25日)