柴田秀吉という人生
山下 国誥

 九州で個人誌を出し続けた故前田俊彦(豊津)、故松下竜一(中津)、そしてここで取り上げる柴田秀吉(別府)の3氏には、共通点がある。戦後の日本社会と日本人に対して、救い難い苛立ちを抱き続けたことである。
 柴田さんは、1975年秋から本紙(西日本新聞)家庭面(当時)に文と絵で「私の自然記」を長期連載した。その原画展を、今年7月末日から4日間、由布岳の北、塚原高原の鬼が島文庫で開いた。
 氏は文化人の名で詩人、画家などと限定して呼ばれることをひどく嫌った。身も心もどっぷり自然の中で呼吸した、野人であった。四季を通じて、山芋を掘り、ヤマメを釣り、薬草を干した。
 氏の絵の中の生物は、息を呑む生の活気で迫る。筆者には、やはり抜群の技量で生物に命を吹き込んだ、香月泰男さんの絵と重なって見える。
 氏は44年、14歳で満州に渡り、満鉄系の通信士の養成学校に入る。間もなく敗戦。豹変する醜い大人の日本人。潔癖な少年は孤立する。大混乱の中、日本人集団から、独り放り出される。それが生涯、立ち直れない心の深傷となった。
 帰国した日本は、激変していた。少年の深傷は、定職に就くことをためらわせた。少年は戦後65年間ずっと、自治体の失業対策労働者として生き抜く道を選ぶ。そして氏は今、病床にある。原画展では、病院車と看護師の付き添いで、絶対に、盛大に、テープカットをする、それが夢であった。会場に着いた筆者は、それが叶わなかったことを知った。伴侶の古庄ゆき子さん(国文学)が代役を務めた。
 柴田さんは同人誌「軌道」を経て、個人誌「すわらじ」、今「自鋤庵記」を出す。8月15日は65年後も埋火となって、多くの日本人の身を焦がし続けている。
(西日本新聞8月6日掲載より)

<<柴田先生ご逝去>>
 鉄輪愛酎会「鉄輪俳句筒・ゆけむり散歩」に、数多くのエッセイをご寄稿くださいました柴田秀吉先生が、去る8月9日ご自宅にてご逝去されました。享年81歳でした。
 心からご冥福をお祈りいたします。