寒ツバキ: ぼくはヤブツバキが好きだ
柴田 秀吉


 庭の寒ツバキが咲き、山は初雪である。茶室の炉びらきをしようと思い立ち、朝早く裏山に入り、顔見知りの農家で井戸水をもらって帰った。
 冬の炉びらきは、五月の炉ふさぎとともに年一回の仕事だが、なかなか手間がかかる。夏・秋に使った風炉釜に熱湯をかけ、炭火でよく乾かし箱にしまう。灰をふるい、壷に入れる。炉の切り畳をあげ、炉の中に灰を入れ炉縁をはめこむ。五徳に釜をすえ、ヒシャクを置いて釜の位置をきちんときめる。茶室と水屋のそうじを終わり、冬屏風を開き、掛け軸を取り替え、床に花を入れるともう夕方だ。
 釜の湯のにえを待つ間、床の寒ツバキと対面した。白色一重筒形、初嵐と呼ばれる早咲きのツバキだ。冬枯れの中にあって咲くこの真っ白い花びらは、つつましく強靭な意志を抱きしめているよう。
 ぼくはヤブツバキが好きだ。寒風に吹きさらされ、光を求めて自力で咲く山ツバキが。山中で濃い緑の葉群の中に、真紅の点をちりばめているのに出逢うと、思わず息をのむ。太古、日本列島はこのツバキにうっそうと覆い尽くされていたという。
 暖流に洗われる南部日本の海岸部に多く自生するヤブツバキ。越前、越中、越後など雪国の山奥で、寒冷と積雪に耐え咲くユキツバキ。中国の雲南、貴州、広西省など、大陸の奥地に原生するトウツバキ。この三者を母種にして現在の園芸品のツバキが数百種生まれたという。
 炉びらきの茶事前に、ひとりで薄茶平手前の稽古をした。毎年のことだが、風炉から炉にかわり、炉から風炉の点前にかわる時には順序にまごつく。宗匠に申し訳ないが、免許は奥までもらっているのに、ぼくは何年しても一年生。が 「茶の本」を書いた岡倉天心によると「茶人に第一必要な条件の一は掃き、拭き清め、洗うことに関する知識である」という。ならば、ぼくは茶人としての第一条件は合格なのかもしれない。
 山上宗二記「茶器名物集」茶の湯評伝によれば「茶ノ湯は作意が第一ナリ。茶ノ湯ノショウ習ハ古キヲモッパラニ用ウベシ。作意ハ新シキヲモッツパラトス」とある。利休の師紹鴎は、百姓屋の釣瓶の水指、乞食が持つ面桶の水こぼし、青竹のフタ置きを考案した。枯れは風呂場の流しで、これらを發想したという。
 このおいらだって、鉄筋の切れぱしをスト?ブで焼いて金ヒバシをつくった。石や砂を入れるバイスケにセメン紙を縫いつけ、タ―ルを塗り、炭の黒竹で軸かけと茶巾かけもつくった。炉壇だってぼくの手づくり。炉の上でコンクリ?トミキサ?を回してもびくともしないはど丈夫にしてある。庭に実ったヒョウタンでつくった花入れ、農家の台所にあった五重の竹で、柱に掛ける花入れもつくった。が、鉄筋のヒバシは重いし、炭カゴは不細工だといって誰も使ってくれない。灰は現場で湯をわかしたあとの木灰を毎日取っておき、灰まみれになってふるった。これだけは先生方に「アリガトウ。買エバ高イノヨ。タスカルワッ」といって喜んでくれた。
 利休の高弟宗二は、秀吉から鼻と耳を切り取られたほどの茶の湯の一轍者。彼の評価によると、茶人には上、中、下がある。まず茶の湯で生活しているのは下、道楽・趣味でしているのは中、わびすき一筋の者、上となる「ワレ茶坊主ナドセマジキ。ト、ヒッソクシテイルノヲ見聞キシテ天下(秀吉)カラ呼出スナリ」「利休ヲハジメワレ人トモ茶ノ湯を身スギスルコトクチオシキシダイナリ」と歎じた。芸術家宗二の面目躍如たるものがある。
 が、ぼくらは紹鴎・宗二のような堺衆(豪商)ではない。まあ皆の衆くらいのところだ。
 けれども利休名人は「骨ヲクダキ身ヲクダクカ、金銀を山ニツムカ」しなければ宗匠にはなれないという。皆の衆のこのぼくは、毎日の生活に骨身を削るありさま。ましてや茶の湯の稽古に金銀を山と積むなど、どだい無理な相談である。
 庭の初嵐はいまがさかり。白玉ツバキ・乙女ツバキ・侘助ツバキ・光源氏ツバキ等の蕾もふくらんできた。ヤブツバキの蕾はまだ堅い。
 〈私の自然記・九州博物記冬の章より〉