「湯けむりの向こうで」鶴見台中学 長野忍


 物心ついた頃から、僕はよく母に連れられて鉄輪の街を歩いた。浴衣掛けでそぞろ歩く観光客の間をすり抜けながら駆け登った、いでゆ坂、温泉情緒と生活の匂いが共存しつつも「非日常」を演出する路地裏、古き良き時代の別府を想うかのように悠然と構える旅館・・・。今もなお鮮明な記憶として残っている。そのためか、僕は湯けむりと硫黄の匂いに感動を覚える「温泉好きののぼせもん」として成長している。そして今、学校の中でも「別府をこよなく愛する長野」として知れ渡っている。
 そんな僕は、勉強の合間に、窓越しに鉄輪の湯けむりを眺めるのを日課としている。数字がうごめき、電子音が鳴り響く無機質の世界から開放されるひとときー。湯けむりの向こうに日夜繰り広げられる人間模様に思いを馳せながら過ごす、僕にとって非常に貴重な時間である。湯けむりには、人の心を和やかにする何かがある。
 最近、久し振りに鉄輪の街を歩くと「お接待」の風景があった。そこからは、温泉の恵みに純粋な心で接する人々の姿が垣間見えた。不透明な霞の下で酒を酌み交わす、どこか遠い世界の「接待」が哀れに思えてくる。
 みゆき坂を登り、「地獄地帯」へ。ここに足を運ぶたび、「真の極楽とは、地獄なのではないだろうか」などと考えたりする。そしてふと、ひっそりと往来を見守る句碑の多さに驚いたりする。多くの詠人たちを自然な感動へと誘った鉄輪の街は、文字通り「俳句の里」と呼ぶにふさわしいーーそう思うのは僕だけであろうか。
 しかし、鉄輪の醍醐味ーそれは、何と言っても「湯けむり」ではないか。空の青と、背後にそびえる山々の緑、そして生命感にあふれダイナミックに立ち昇る湯けむりの穏やかな白。「これぞ鉄輪」とばかり、コントラストに息を呑まずにはいられない。
 そんな鉄輪の湯けむりーそれは、豊富な温泉の恵みの証であるのは勿論のこと、そこに住む人々のみなぎる力、街への愛着、もてなしの心、いやしの精神ーそういった「人情」をも、温かく、それでいて雄弁に物語っているような気がしてならない。
 訪れた人の心のアルバムの一ページを「感動」と「やすらぎ」で飾る街ー「鉄輪」はそんな場所ではないだろうか。