「古木に会いに―北中のヤブツバキ」
中山 士朗
- 桜の花が散りはじめた頃、私は北中の松川武義さんのお宅を訪ね、庭に植わっている七本のヤブツバキの古木を鑑賞させてもらった。
- 私が日頃見かける、ヤブツバキの大きさの概念を超える、途方もない高さと太さをもった巨木であった。
- 幹周り一メートル以上、幹の先端や枝は切り詰められているとはいえ、樹高は五。以上あるのではないかと思われた。なかでも玄関に通ずる石垣の脇に植わったヤブツバキには、鈍い銀色の無機質の固い樹皮と化した幹の中央部の窪んだ箇所に、宿り木を思わせる状態で羊歯の気根が重なり、垂れ下がり、しっかりと纏いついていた。そこには、薄緑色の芽が、微かに伸びはじめていた。
- 左側の庭には、切り株の地中に残った根から一。ほどにも成育した、若木が見られた。
- 後でその切り株の周りを計測すると一・五メートルほどあった。
- 松川邸には、かつて玄関前の両脇にヤブツバキの古木が植わっていたが、平成十七年に強風で倒れ、枯死した。その跡の一箇所は表面をコンクリートで固められ、今一つは石蕗など草花が植えこまれていた。
- 「ここに植わっていたヤブツバキを景観に取り入れて、平成元年に改築したのですがね」
- 松川氏は残念そうに話した。
- 古い家屋は、建初柱に記された年月日によって、一〇〇年を経ていることが判明したというから、相当な年数を経ていることが想像される。
- 改築された家の、玄関前の両脇に植わっていたヤブツバキの一本は、枯れる前には二本に枝分かれした箇所の空洞に、自生し、高く伸びた淡竹(ハチク)を慈しみ抱きかかえているような風情が感じられたという。そして、自身は名残の一輪の花を咲かせていたのである。
- 推定樹齢をたずねると、八〇〇年ぐらいという話であった。現存しているヤブツバキの樹齢については「二〜三○○年でしょうかね」と夫人は答えた。
- 話を聞きながら、以前この附近一帯には松林と孟宗竹の林があり、それに囲まれた傾斜地にヤブツバキの林が広がっていたものと私には推測された。その間を縫って、昼間でも薄暗い、さびしい小径が通じていた。
- 昭和一七年になると鉄輪の旅館は、陸海軍の病院として徴用されたが、戦争末期には空襲警報が発令される度に、白衣をまとった、身体が不自由な傷病兵たちは、松葉杖を突きながらそれぞれの病棟から避難場所に向かった。
- 松川邸に近い、萬屋、常盤屋、辰巳屋旅館を病棟とする傷病兵たちは、空襲警報のサイレンが鳴り響くたびに、この林に避難して来た。現在では、松林も孟宗竹の林も消滅して、家屋や商店が密集しているので、立ち残っているヤブツバキのみが当時を記憶していることになるのであろう。
- 松川邸から少し離れた「谷の湯」近くの大野秀男邸にも、ヤブツバキの古木が残っていた。
- いずれも群生し、林を形成していた名残であろう。しかし、宅地開発によってヤブツバキは伐採されていき、林としての態を次第に失って行ったにちがいない。
- 松川邸の隣に、「椿荘」と書かれた看板の掛かった旅館があったが、道路に面して二枝に分かれたヤブツバキが植わっていた。
- 聞いてみると
- 「母が生前、経営していました」
- という夫人の言葉であったが、この地の面影を宿した良い旅館名だと思った。
- ヤブツバキが長い年月かけて保存されている背景には、多くは語られなかったが、さまざまな気苦労があったものと推察された。
- 「青葉の頃になると、オコゼの葉を食む音が家の中まで聞こえます。道路に散った落ち椿は何度も掃かねばならず、四年に一度は剪定していますが、台風の時には倒れはしないか、と心配します」
- と松川氏は言い、夫人は、
- 「正直いって、子供の頃はツバキの木は嫌いでした。オコゼが葉の裏にびっしりと付いて、刺されると体中が痒くなります。傍を通っただけでも痒くなる人がいます。そんな人は、避けて歩かれます」
- と言った。
- オコゼというのは、チャドクガの幼虫・茶毛虫のことだろうと思いながら聞いていた。
- しかし、その反面、茶道の師匠から茶花として所望されたり、枝を下ろすと枯れるから止してくれ、と例年ヤブツバキの満開を愛でている近所の人から懇望されると、嬉しさが増すという。そのほか乾燥したツバキの種からは、圧搾すると黄色いさらっとした性状の油が採取され、それが床や柱磨きに用いられたために、わざわざ拾い集めに来る人もいた。
- 私はこれまで加茂本阿弥、崑崙黒、大神楽、白侘助、白玉、袖隠などを東京の自宅の庭に植えていたが、別府に住むようになってからは、胡蝶侘助、ト伴、安芸錦、近くの山に自生していたヤブツバキを植えている。
- しかしこの年齢になると、今では日本にもともと自生していたヤブツバキが、もっとも清楚で美しいと思うようになった。
- 私が松川邸を訪ねた日、石垣の上に濃い赤色の落ち椿が散っていて、その脇には美しい顔をしたお大師さんが祭られていた。
- 椿落ちてきのふの雨をこぼしけり 蕪村