「いでゆ坂の猫たち」
中山 士朗

 この10月19日のNHK「ふるさと一番」は、〈神楽坂まち飛びフェスタ〉という題名のテレビ番組であった。学生時代の頃から慣れ親しんだ町の名前に心惹かれて、画面に視線を凝らした。
 戦災後に建てられた旧い家屋が、狭い路地を挟んで静かにたたずむ、しっとりした雰囲気のただよう町並みが映し出されていた。
 民家の奥まった所に、看板もなく営まれているフランス料理の店、作家や脚本家が仕事場にしている旅館、老舗の鳥料理屋、酒房、芸者衆の稽古場である検番では、「お座敷遊び」が体験できるフェスティバルが開かれていた。その中に映し出された「鳥茶屋」、酒房「伊勢藤」は、私には懐かしい店であった。
 最後に、毘沙門天の前に集った猫好きのグループ〈オニャンコの会〉による「化け猫パレード」の紹介があった。神楽坂には猫が多く、その猫たちを見ることができる場所がマップの上に記されていた。その期間中、人間が猫に扮した仮装行列が行われ、ノラ猫や泥棒猫、ドラえもんも登場する様子であった。代表者の女性の肩には、おとなしい表情をしたクロトラ模様の猫が、美しい光沢をもった襟巻のようにまといつき、おだやかな視線をカメラに注いでいた。人々が猫の鈴を振って別れを告げるところで、番組は終わった。
 見終わって、―鉄輪も、猫が多いところではないか。と私は思った。
 そして、猫が安穏に暮らしている町は、情の厚い人が住む、心温まる町だという確証を得た思いがしたのであった。
 別府に移って来るまで、私の家には絶えず猫がいたから、猫には、人間の心を癒す何かが宿っているのは、十分に承知している。特に子猫の魅力は、無条件に心を和ませてくれる。
 俳句筒「湯けむり散歩」の平成15年秋・45集には、斉藤雅樹氏の〈鉄輪の猫だんご〉という名作がすでに掲載されているので、私がいまさら猫の話を持ち出すまでもないが、神楽坂の猫のことを知ってから後は、似たような雰囲気が漂う鉄輪の町の猫に関心が寄せられるようになった。
 鉄輪の猫については、写真家で作家でもある藤原新也氏の自伝小説「鉄輪」の中に、『黒猫』という章があり、雨の降る日にひろった黒猫が、少年時代の藤原氏を親と思いこみ、いつも後について来てバス通りまで見送ってくれる話が書かれていた。その猫が「谷の湯」について来た時、湯船に突然飛び込んで泳ぎはじめた。
「この猫、よう泳ぐなあ」
と耄碌老人が別に驚く風でもなくそう言って、タオルで顔をしごいた。
 その文章の後に、黒猫の写真が収められていた。
 鉄輪いでゆ坂を散策していると、しばしば猫を見かけるが、日常あくせくとして暮らす人間とちがって、猫は悠々と、哲学者の風貌で散策している。それを眺めているだけでも心やすまる。
 先日、鉄輪に住む人たちと話していると、その人たちは猫のいる場所に詳しく、自身も自宅に寄ってくるノラ猫にひそかに餌を与えている様子だった。
 神楽坂の猫マップではないが、鉄輪マップにも猫が見られる場所を書き加えて旅人に配り、「湯けむり散歩」紙上で〈猫のフォト・コンテスト〉を催してみたら面白いのではないか。
 鉄輪は、湯けむりと地蔵と猫がよく似合う、旅人の心を癒す昔ながらの湯治場である。
〈追記〉
 この稿を書き終えた後、編集者の河野さんから平成10年に牛込倶楽部が発行した、まちの雑誌「ここは牛込、神楽坂」第13号を借りて読んだ。特集として〈神楽坂を歩く〉という内容の記事が組まれていた。
 読んでいると「神楽坂俳句横丁」というぺージがが設けられているのに気づいた。選者は、女優の冨士眞奈美さんであった。
 横丁とは、表通りから横に入った町筋のことをいう。その横丁という語から、私は作家で俳人でもあった永井龍男氏(1904〜1990。81年文化勲章受章)の最後の随筆集「東京の横町」を思い出し、再読した。
 明治37年駿河台下の横丁で生まれ、育った永井氏の文章は、時の移ろう中に横丁で暮らす庶民の哀歓が、確かなまなざしで描かれていた。
 そして、長女の友野朝子さんの〃あとがきに〃代えて書かれた「父のこと」の最後に、
父の亡くなった日は、父の愛した猫ミー公の命日にもあたる。庭のミー公の墓上にあるハゼは、今年も紅葉がみごとであった。
 と猫の話で締めくくられていて、不思議な巡り合わせのようなものを感じた。