「むかしはみんな若かった」
三浦 祥子

 焼酎鉄輪のお披露目がおこなわれたのは昭和59年、冬の日の午後だった。貴船城の大広間にあつまった七、八十人の男たちの上に、まだ明るい外の光が差し込んでいたように記憶している。
 細長い座卓をはさんでずらりと座った人々の中に、「とおるさん」と呼ばれる元・相撲チャンピオンの安波兌さんや、語らいの宿三晃の原カンコーさんや、「タルちゃん」と呼ばれる貴船城城主の樽谷寿生さんや、旅館温泉閣の河野「ターちゃん」など名うての飲み手が顔をそろえていた。
 焼酎鉄輪が座卓におかれる。みんながグラスにつぐ。「わが愛酎会では、乾杯と言わずに愛酎!と言うことにします。ではみなさん、愛酎!」「愛酎!」「愛酎!」「愛酎!」
 昭和55年あたりから大分県に゛まちづくり゛の気運が出てきて、大山町が毎年若者数名を海外研修に出している長期計画や、湯布院でひらかれる音楽祭などが先進地のお手本とされていた。観光地である鉄輪の人たちはこの動きに敏感に反応したと思われるが、私の勝手な想像だと、「味噌やカリントをつくったり、音楽祭を開いたりするのはオレたちにゃ似合わん」と思っていたのだろう。
 この、まちづくりの動きとほぼ時期をおなじくしたのが麦焼酎・二階堂、そして三和酒類・いいちこの大ブームだった。ある晩、゛明るい農村゛で飲んでいたタルちゃんと賀来酒店のコーちゃんが転勤族の客から゛ご当地焼酎゛なるものがあるという情報を聞いた。「よし、それだッ」「二階堂やいいちこよりうまいのをつくろうじゃないか」「オレたちも毎晩それを飲んでまちづくりに貢献しよう!」となり、やがて愛酎会の発足、オリジナル焼酎鉄輪の誕生を迎えたらしい。
 焼酎鉄輪を売って得た利益で、「湯けむり俳句」という俳句の会をつくり、すぐれた句は句碑にしたという点でも愛酎会はオリジナリティを発揮している。
 おかげで私の父の「木枯らしの止めば湯けむり立ち上がる」も選ばれて温泉公園に碑を立てていただいた。
 鉄輪はとくべつな土地である。私の家は40数年前に大分市から引っ越してきたが、アユの季節にそれまで大分市でつくってきたようにウルカを発酵させようとすると、1週間でふつふつとたぎってしまうのだった。翌年もまた、ウルカはたぎった。仕方がないので父と私はその゛たぎりウルカ゛を肴にして飲みながら「鉄輪には中温度発酵菌がいるにちがいない」と話した。鉄輪は本当にとくべつな町である。世界一といわれる湯量の温泉排水が急流をなして流れているのだから。
 焼酎鉄輪の誕生から30年をへて、町のあちこちに句碑が建った。そして鉄輪はあいかわらずのどかである。地獄蒸し工房で蒸すための冷凍の魚介類を買いに福山のばあちゃんたちが数人、日野鮮魚店の店頭にあつまっていた。「むかしは、みんな若かったよなぁ」と魚屋のオイちゃんが言うとばあちゃんたちはオイちゃんを叩かんばかりに笑って「オイちゃんもむかしはイイ男じゃったろう?」と言いかえした。
 むかしはみんな若かった。あのときのまちづくりの心意気をこれからだれが継いで行くのだろうか。(企画編集ハヌマン代表)