「「恩師を偲ぶ」その夜」
中畑 耕一

 あじさいの変化つぎつぎ小さき窓  紘文
 恩師の生前の最後の句となった。
 平成26年6月11日夜7時すぎ、姉から先生がなくなったらしいとの電話。えつ!まさか?どうしてそんなことが?急に息がつまる思いがした。早速編集部のT氏に連絡を入れると、確認がとれた。やっぱり事実であることがわかった。間違いない!大急ぎで子供にれんらくを取り、車を走らせた。
 別府までの車中は、先生のことばで、頭の中が無茶苦茶に乱れた。
 先生のお宅は、実に何もなかったように、静かであった。躊躇しながら、思い切りインターホーンを押した。奥から娘さんが、そして奥様が玄関の間に、胸の騒ぎを押さえながらお悔やみを申し上げた。案内をされた奥の部屋のベットの上に、金襴衣をかけられた先生の眠られた顔があった。その顔は、やっとここまで!無念の先生の顔であった。ただ呆然と立ち竦み、全身に鳥肌が出たのを覚え、合掌をしばらく続けた。頭の中は、真白だった。
 先生!どうして!。こんなに早く!。涙が滲んだ。その部屋には、奥様と、娘さん、ヒナタ君の三人がおられた。
 奥様が、わざわざ部屋の窓を開けて、このあじさいを詠んだのが最後の句になりましたと、教えてくれた。そこには、窓明りの中にあじさいの美しいい毬が四つ五つ咲いていた。
 先生には度々生意気なことを書いた手紙を差し上げ申し訳ないことを、奥様にお詫びを申し上げた。
 或る日、先生からいたヾいた別府のワニ地獄の絵ハガキは、ワニに負けないように頑張ると書かれてあった。折り返し私は、蟻に負けないように頑張る。と、そして二〇二〇年のオリンピックは、元気でテレビを見ましやうと約束の返事を差し上げたのに…。
 平成26年6月14日先生の葬儀が取り行われた。葬儀場には、溢れんばかりの人々が、先生との別れを惜しんだ。
 顧り見れば、先生の御力によって、平成15年6月8日当時の愛酎会の原寛孝会長さん、河野事務局長さん等のご尽力を得て、みゆき坂の白池地獄の入口に、私の句碑を建てていただいた。
 先生には、平成26年春には一つの決心が出来ていたのではないだろうか?それは、角川の「俳句」5月号に、千の波と題して、俳句が掲載されている。最後の8句目に、「ゆく春に乗り千の波いざさらば」この句を拝見した時、やっぱりそうだったのか……と言う思いがした。
 私の俳句人生は、先生がおられたからこそここまで続けられたことに、感謝の言葉があるのみである。体の中に蓄積されていた俳句の力が一挙に抜けてしまった思いである。
 ただ先生のご冥福をお祈りするばかりである。 (「蕗」誌友)