「黎明期の都市計画・鉄輪の夢」
藤田 洋三(写真家)

 別府の近代化・明治のインフラ
 明治の開国は、日本が近代化を選択した一大転換期だが、明治政府は脱亜入欧をテーマに近代化推進のため、西欧各国から様々な職種の外国人を「お雇い」という形で招聘した。我国の西洋建築は、鎖国が終焉して文明開化が始まる明治初期。国内にまだ本格的な西洋建築が登場していない時代に、チョンマゲ姿の左官や大工が洋風に擬えた擬洋風とよばれる、西洋もどきの建物を開港場の横浜や神戸のホテルや異人館として登場させたことに始まる。その後、新政府の「お雇い」外国人技師や日本人留学生が帰国して、本格的な西洋建築が登場したのが日本近代建築の通説となっていて、大正時代を迎え温泉付きの別荘開発につながっていく。
 新政府は幕末の政情不安と外国貿易の不均衡による銀貨の支払いを銅にして開国日本に別子・足尾銅山を登場させたが、明治五年に元薩摩藩士・五代友厚等が創設した大阪商船が大阪→別府航路に就航し、現在の明豊中学に大阪商船直営「別府ホテル★」を登場させている。瀬戸内海の大量輸送が始まった明治初期。大阪商船の鉄船が阪神から四国を経由して、泉都別府に近代文明の恩恵をもたらし、明治三十三年の火力発電所開設が電灯を灯した。この「電気鉄道軌道停車場予定届」の資料に「愛媛県西宇和郡八幡浜町の長山英蔵・菊池幾造」の名前が見られ、電車と電気のインフラは愛媛県人の経済力によるものが大であった。
 日本の近代化黎明期の経済人で道徳人といわれた渋沢栄一は、俳人芭蕉の「不易と流行」から「経済と道徳合一」という言葉を残した。論語と算盤といわれたが、その根底に哲学が伺え「知行合一」が望まれる二十一世紀の展望も見えてくる。
 西瀬戸近代交通・海運史 「西瀬戸経済・ヒトモノがたり」
 こうしたことから西瀬戸に並存する北九州・福岡・山口・広島・岡山・大阪・東京。そして対岸の愛媛、香川県の聞き取りが進めば旅館関係者のみならず、さらに多くの物語が浮上すると思われる。銅の資本家を初め、全国で消費された筑豊の石炭。九州で大量に消費された今治のタオルや讃岐うどん・乾物のいりこやかつお節に蒲鉾やミンチにした雑魚のてんぷら・干し芋・鮮魚・果物(愛媛みかん)や行商(藍染反物・紺反)ほか多くの物産が対岸から移入され、佐々木長治と関係の深かった伊豫銀行(大正九年五月二九日・宇和銀行・二十九銀行と合併)が、多くの旅館や商店と共に経済圏を確立した。
 宇和島出身の油屋熊八は、亀の井旅館を開業して別府の宣伝マンとして名を馳せたことで知られるが、他に大洲出身多田順三郎の多田組 や同大洲出身の故西田熊太郎の現ホテル白菊。愛媛屋旅館の二宮為作(現・愛媛屋ビル)など多くの政財界人が活躍した。
 別府で始めての埋め立て 明治二十八年・浜脇入江町
 明治三十年、向浜の船入場横に浜脇魚市場、別府町は北浜海岸沿いに別府魚市場が開設された。同四十年六月の町議会で浜脇漁民の魚荷揚場として波止場突堤建設が採択され、百隻余りの船溜りだった浜脇の港は、埋め立てられ入江町(現浜脇一丁目)が完成、海岸はその後、楠町から浜脇までの砂浜が埋め立てられた。
 大田躑躅園★
 一方内陸では大田長一が、明治三十七年に開園した四千坪の私立つつじ園を八幡地獄の利光律次が昭和初期に購入して一般に公開。利光は八幡地獄と南立石とつつじ園をつなぐ土地利用を考えていたことが伝わっている。現・宅地
 「大別府大観」に登場する北町に在住した「小宮茂太郎・実業家」は、安政元年肥前唐津に生れ、別府発展の第一歩として耕地整理の第一番に別府全市の地形設計を志し、別府公園山水公園地獄等の開拓や八幡地獄外二三の地獄に関係して海門寺に三千円の寄付やその他の慈善行為は数回におよび、別府第一番の請負事業家として大正九年五月六日、公徳記念碑を建てている。旧・つるみ地獄前
 麻生太吉の別荘と庭園★
 小宮茂太郎が造成した四千五百坪の公園を麻生太吉が購入。大正三年に別荘が建設され同十年一月、別府で初めての温泉熱を利用した麻生農園が開設された。昭和二年に別荘が全焼したが、翌年に再建された。 現・分譲地
 麻生太吉の高原電車計画
 大正初期に麻生太吉の温泉回遊鉄道株式会社が回遊電車を計画。この会社定款は明治四十四年、資本金百五十万円 社長麻生太吉・専務藤沢良吉・株主松永安左衛門・蔵内次郎作・長野善五郎・賀田金三郎・松田源治・松方幸次郎・千手吉彦・城洸。本社建設用地は、現在の京都大学地球物理学研究所。仮事務所が駅裏の旧久保田医院★でスタートし、旧豊泉荘前の空地にチョコレート色の電車ボデイー二台が到着したが、思わぬことから幻の計画となる。そのコースは鉄輪→亀川→北浜→桟橋。この頃、広電の松本勝太郎が別府駅からつるみ園、荘園を経由する循環電車の計画もあったが、海岸の埋め立て業者の建設反対キャンペーンで麻生の計画は頓挫、松本の循環電車計画は採算面で沙汰止みとなる。
 地獄堀り
 流川にあった万屋★の神澤儀介が井戸を突いていたら温泉が出たことから湯突きが始まり、町は北部へと旅館街を形成していったといわれるが、大正二年に流川の水管敷設の穴掘り工事で地獄が噴出した話を是永勉が「別府今昔」に記している。鉄輪で温泉を掘るときは白装束で(これは地獄を掘っている最中に熱泥が噴出して死に至ることもあったため)家族と水杯を交わし、孟宗竹を使って堀り進んだことが伝承されている。これは上総堀とは異なるもので、大正初期に油屋熊八が亀の井旅館★を新築した時の様子もある。油屋と「別府宣伝協会」を主宰し、鉄輪のワニ地獄や鬼山ホテルを創業した故宇都宮則綱著「回顧七十年」に「昔は地獄を掘るのに一年かかった。パイプがぼろぼろになるので四年に一度の割合でメンテナンスが必要だった。機械堀りは僕が最初にやった」と記している。温泉旅館や病院建設を支えた湯突きは現代も健在で、泉源(スケール除去)の管理や地質調査ボーリング等に従事している。
 日本初の地熱発電に成功
 大正十四年 東京電灯研究所の高橋廉一が鉄輪で日本初の地熱発電に成功。時を同じくして同年十二月十日、鉄輪の加藤精一と安波利夫が「鉄輪・脇ノ前耕地整理申請書」を新別府温泉土地株式会社代表の千壽吉彦(東京目黒区在住)と速見郡朝日村大字鉄輪百四十番地から申請書類に捺印して県に提出した。これは別荘開発(新別府)に伴う耕地整理と水源・水路確保の申請書類だが、ここに鉄輪から「南は温泉回遊道路ニ依リ 八幡地獄及観海寺ヲ経テ 別府ニ達ス 而シテ地区ノ中央ヲ 温泉廻遊道路貫通セリ」という一文が見られ観海寺と八幡地獄が登場するが、この地区も別荘開発計画が進行した所。
 福島嘉一郎の架空電車
 昭和初期、こうした計画を睨みつつ福岡県田川市在住の実業家福島嘉一郎が朝日村村長の加藤称司に「架空電車計画」を提案した。これが福岡を基点とする福岡・田川一時間、筑豊・別府を一時間で結ぶというもの。しかしこの計画を目前に控えた昭和八年十一月、福島の急逝で架空計画となる。「郷土田川・十八号・昭三十五年」ここに詳しい経緯が記されているが、昭和初期といえば市民が嘲笑した山登りをする電車のケーブルカーや油屋熊八の遊覧飛行に大型バス。大阪別府間の大型飛行艇の就航など次々に新しい技術が登場した時代。藤島嘉一郎の計画書を読むと架空電車と朝日村の都市計画は、あながち牽強付会ではないように思われる。前述した大正時代の浜脇から北浜や亀川の海岸埋め立てや新別府・観海寺・旧温研界隈の開発の物語を知るにつけ、明治維新の男達が東西奔走した鉄輪ドリームがあったことを囁きかけてくる。
 注★は消えたもの