「鉄輪のこと(その4)」
上人湯(風呂本五組)
河野 忠之

 温泉組合の記録によると、昭和14年雷園地獄の所有者木戸正三氏(北九州市小倉出身)が開設。温泉と同敷地内に木戸アパートとして2階建ての借家があった。太平洋戦争初期の昭和17年に鉄輪の旅館が、陸・海軍の傷病兵の療養施設として借り上げられた時に、同アパートもその中に含まれた。
 私の記憶では戦後、山鹿荘と云う名前に変わり、上人湯の奥、アパートの入口に弘島医院があった。
 昭和17年5月に田中喜一・後藤佐吉共著で発行された冊子「別府の地獄遊覧事業に関する調査」によると、木戸氏が開発の雷園(らいえん)地獄は昭和12年10月に規模の大きな噴気を掘削し、昭和16年8月に「雷園地獄」として開業。戦後入浴者施設「雷園ホテル」など単独の地獄観光を行った。その後経営者が変り、スネークランド・秘宝館・ホテルあしや・現在のバーデンハウス(マンション)と変遷を遂げている。
 開業当時から、その豊富な湧出泉は鉄輪の各旅館などに配湯され、現在は一部「鉄輪温泉組合」の名称で継承されて独立した温泉組合になっている。
 経過から考えると、「上人湯」開設当初の源泉は雷園地獄の温泉であったのであろうが、平成二五年現在の市有区営組合温泉「上人湯」は別府市の管理する配湯管から給湯を受けている。
 取材の中で御幸の中村とし子さんは、戦中に木戸氏が居宅を建て屋根を銅板葺きにしたが、統制経済の時代で取り壊されたと語り、風呂本5組の木戸アパート跡で現在「割烹大路」を経営する横大路文恵さんは、昭和35年頃に雷園ホテルに友人を訪ねた折り、すごく贅を尽くした建物であったと思い出を話してくれた。
 現在の上人湯は平成元年12月に改築され、設計は鉄輪井田の佐藤峯好さんで、和風瓦葺きの中央に蒸気抜きがある雰囲気のある木造である。
 利用者は風呂本5組と御幸地区の人々が中心で、40戸の組合員で構成されている。観光客の立ち寄り入浴も地獄蒸し工房の創業以来更に増えるようになった。
 20年以前に県道の上の現在スナック「円居」の下の場所に「御幸の湯」(湯壺は男女共用)があったが、ホテル「あしや」(雷園の跡)が出来、みゆき坂の交差点が狭く「合同タクシー」の車庫の一部と「御幸の湯」を「あしや」が買収して道路を拡幅した時に、共同温泉は無くなり利用者は上人湯に統合された。(御幸の湯の土地所有者は上組の佐藤和義氏であった)
 上人湯の近くには、旧くから亀の井バスの営業所や観光待合所が有り、戦前・戦後朝日校区の中心繁華街で、明治42年に結成された朝日産業組合(農協の前身)の本所が、大正10年に上人湯の下に開設された。(筑後屋本館原蘇七、たつみや平川信勝両氏の寄付、地積二百数十坪・当時の地価3000円)昭和初頭の大恐慌や動乱、太平洋戦争後の農地改革を経て、昭和23年に新しい農協制度が出来、現在の別府市朝日支所の隣にあった食料倉庫に移転した。
 矢田保氏の著書「ふるさとの年輪」(朝日産業組合編)によると当時の鉄輪の各旅館は農家との兼業で、組合の役員や農協組織の役員に名を連ねている。
 その後、原文子氏(筑後屋本館)が買い戻し旅館三晃を開館、平成22年別府市の運営する地獄蒸し工房が国土省の地域振興事業の補助を受けて開設され、別府市の人気スポットとして多くの観光客を集めるようになった。
 もう一つは、銀行が整備されていなかった鉄輪に昭和26年別府信用金庫が上人湯の前(現浜田博市長宅の一角)に開設され、昭和32年に上人湯の下側に移転し、さらに現在地で昭和45年から営業している。
 雷園地獄を開設した木戸正三氏は北九州で炭鉱や火薬業を営み財をなし、鉄輪では鬼石坊主地獄も所有していた。

 今回この稿を起こすに当たり多くの人のお話を拝聴、特に馬場町の大石房雄氏と元農協に勤められていた渕政輝氏に、矢田保氏の著書「ふるさとの年輪@」を提供いただき、朝日村の歴史と農村史(産業)を勉強させていただきました。
 著書(氓モるさとの年輪・朝日産業組合史とふるさとの年輪・朝日農業組合史)の二巻を著した故矢田保様に深甚の感謝と敬意をいたします。
 ゆけむりの中の停車場冬ぬくし
               菊池輝行
               (愛酎会の第4回句碑)
 上人湯の左脇に平成9年建立された。