「筋湯温泉の想い出」
河野 忠之

 鉄輪井田組(町)の中ほどにある筋湯温泉は、それを取り囲むようにして旅館や貸間、商店がある。入浴者は、宿泊客である。温泉の湯口はあるが、温度を調整する水道がない。温泉百パーセントで神経痛等に特に効能があり、筋に良く効くことから浴場名にした鉄輪の名湯である。
 筋湯は松屋旅館の安波孫一さんが昭和初頭に土地を寄贈して造られた、市有区営の組合員管理の風呂で、戦後昭和二十三年頃?にお宮の立ち木を切り出して改築された。
 それまでは二階建てで、そこが鉄輪の青年団の会所になっていたそうである。昭和五十年に現在の姿に改築された。代々の世話役は佐藤晴信(筑前屋)、安波準之助(松新)、林田武さん。平成二十五年現在の組合長は、後藤一行さんである。
 戦後の一時期、了見さんという盲目の人が風呂の奥の、男湯と女湯の境に住み着き、夕刻から夜間にかけて近くの旅館や貸間の宿泊客の按摩治療に出かけていた。
 当時の鉄輪は入浴客が多く、筋湯に入る人々に浪曲を演じていた。三味線の代わりに空き缶を叩いていたが、その調子と声が好評で、筋湯に入る浴客の楽しみの一つでもあった。
 その頃の家庭にはテレビなど無く、家族でラジオを囲んで寛いでいた。浪曲が盛んであった事もあり、入浴の人々に好評で、浴客から花(祝儀)の投げ銭があった。
 当時筋湯の下の通りを「鉄輪銀座」といい、多数の土産物屋や衣料品店などが並び賑わいを極めた。
 少し上に大勝館(現在は上組・喜楽アパート)という芝居小屋があり、青年団がのど自慢大会を開き、幕間に了見さんに浪曲を演じさせた事もあると後藤徳(入舟荘)さんは想い出を語った。
 当時鉄輪の風呂場はシャッターも無く、終日入浴出来たので、朝早くから夜遅くまで浴客の話声がして、浴客の下駄の音が通りにあふれた湯治場であった。
 鉄輪のすべての共同温泉は、浴槽の底が厚い松板の二重の底になっていたごみが浮きあがらない仕組みになっていた。その浴槽の掃除を隣組の各戸から人が出て、その重い板を十日間くらいで除けて、下に溜まったヘドロを掃除した。組とか班では、そんな作業を通じて支え合っていた。
 最後まで残っていた北中の谷の湯温泉は、数年前全国各地でレジオネラ菌騒動があった際、、保健所の指導を受けてコンクリト底に改められた。
 筋湯は数年前に浴槽等を大改修したが、入浴するのは筋湯の評判を知った外来のお客さんである。
(注1)伝え聞くところによると、了見さんは福岡県新田原の寺の出身ということであった。
(注2)大勝館の在った場所は、昭和初頭に海地獄の千寿吉彦さんが鉄輪で初めて土地開発(当時は耕地整理といった)したところで、当初は鉄輪の集会場が計画されていた場所であった。長崎の人の出資により、浅井さんが鉄輪館という劇場を経営。戦時中は軍の資材倉庫になったが、戦後は島崎さんが大勝館を経営し、昭和三十年頃まで映画や芝居が催されていた。