別府での出会い(その2)
「湯治船」
石 菖 女

 昨日までの風雨が信じられないほど本日は快晴。部屋の中で過ごすのがもったいなく、やわらかな陽射しを浴び爽やかな風に吹かれてみたくなった。温泉が恋しくバスに乗っていざ別府へとも思ったが、このところお出かけはバスか電車。たまには船に乗ってみたくなった。ビルの十階から空と博多湾の海を眺めると、向かって右に志賀島、左に能古島、その間に玄界島。志賀島の旅館に予約をして、急な思いたちだがとにかく出かけることにした。
 博多港から志賀島行きの船に乗るととたんに旅行気分。バスや電車は定まった道路や線路の上を平面的に進むが、船は海上を自由に走り回れる。そして風や波に合わせて上下左右にゆれる。空の青いキャンパスに綿菓子をちぎって貼り付けたような雲。見慣れた街も、海上から見ると違う街のようだ。海の香りと海面の輝きが一層私の心を踊らせる。そんなことを楽しんでいると、船の心地よいゆれに私の体の奥底の何かが呼び覚まされたような懐かしいような気分になった。もしかしたら私のご先祖様は漁師だったのかもしれない、などと勝手なことを想像しながらまどろんだ。志賀島に到着すると、鳥居があり海の神様が奉られた志賀海神社に早速お参りした。そこからは大きな貨物船もヨットも小さな漁船も見えた。帆を下ろして止まっている漁船を眺めていると、ふと「湯治船」のことを思い出した。
 日本一の温泉を誇る別府市。その温泉は八世紀「豊後風土記」や「伊豫国風土記」に記されるほど長い歴史を持っており、明治四年(一八七一)に現在の流川通り近くに別府港湾が建設された。築港で瀬戸内海の交通が活発になってくると、中国、四国、関西方面から入湯客が訪れるようになり、温泉街として発展した。その頃、不老泉、東西浜脇温泉、紙屋温泉、竹瓦温泉などの共同温泉が新改築され、その周辺に旅館街ができた。その頃の温泉とは温泉治療(湯治)を目的としたもので、入湯客は部屋だけを貸す宿(木賃)などに長逗留し、名高い共同温泉に通うというスタイルであった。温泉は、大自然が恵んでくれた、貴重でありがたいものであったにちがいない。当時のスタイルとして、港に泊めた船で寝泊まりしながら温泉に通う「湯治船」もあったという。湯治船について、「春の四月、五月の頃になると、山口県の大島郡とか又愛媛県の八幡浜付近の海岸の村では、一艘の船に米、味噌、醤油を積み込んで、二・三十人の人が一団となってこの別府に来る。帆をかけて入って来た船は、波止場に繋いで三週間ばかり滞在する(後略)」などと記された資料を見たことがある。そして有名な俳人である高浜虚子が当時の別府温泉の風物詩「湯治船」を春の季語として取り上げ、昭和九年の虚子編「新歳時記」に採録されたということであった。
 「湯治船」の著者である秋吉收様を別府市北浜の海門寺近くにある醫学博士秋吉良文(秋吉收様の祖父にあたられる方)と刻まれた大きな石の表札の立派な邸宅にお尋ねした折、ご本を見せていただき、いろいろと貴重なお話を聴かせていただいた。なかでも、秋吉良聞様(秋吉良文様の俳号)が詠まれた、
 伊豫訛 広島訛 湯治舟
 の句のことや、また、当時の別府市医師会会員を中心としたホトトギス派の句会「土筆会」の渡辺一魯氏、岡嶋田比良氏が高浜虚子に熱心にお願いして、「湯治船」が春の季語として虚子編「新歳時記」に採録された話など、興味尽きないものであった。
 また、邸宅を案内していただいたが、この建物は戦前に大分市高田から移築されたもので、旧幕藩時代に、細川家肥後藩高田手永 の代官を勤めていた岡松家の屋敷をそのまま保存したということであった。そのたたずまいの重厚感には圧倒された。北斗七星が輝く欄間があり、数々の名品に目を奪われてしまう貴重なお屋敷であった。俳人高浜虚子がおいでになり「良聞居」と命名されたそうである。当時の別府は単なる温泉観光都市ではなく、季語を創り出した全国唯一の文化都市であり、まさに良質の文化発信基地であったことなど教えていただいた。現在までこうして文化財を大切に残してこられたものを、幸運にも私は直接目にすることができ、当時の別府の様子を詳しく教えていただいたことに感謝しながら、辞去したのである。
 春の別府湾内に、百艘近くの湯治船が舳を並べて繋がれた光景は、さぞかし圧巻だったことであろう。いろいろなお国訛が飛び交い、一時的に人口が増えた別府の街は大いに賑わい活気づいたことだろう。そしてある日、自分の村に帰ったのか、別のところへ移動したのか、船はいなくなってしまう。温泉療法で癒され幸せな気持ちを胸に。時には荒々しく、厳しく、時には穏やかで豊かな、そんな海の恵みを受けながら自由に海を走ったであろう湯治船。
 想像が膨らみ、タイムスリップして実際に見てみたい、乗ってみたいと願わずにはいられない。今となってはかなわないのであるが、だからこそ湯治船についてもっと知りたいと思うし、別府ならではの春の季語である「湯治船」という言葉を大切に使い、伝え続けられたらと思う。