「湯けむり追想」
中山 士朗

 このところ阿川弘之氏著『雲の墓標』を繰り返し読んでいる。
 この作品は、海軍予備学生(京大)出身の吉野次郎士官が、大竹海兵団に入隊した昭和18年12月12日以後、木更津海軍航空隊から特攻隊員として出撃した昭和20年7月9日までの日記をもとに書かれたものである。
 吉野士官が宇佐航空隊に所属していた期間は、出水海軍航空隊から昭和19年9月27日に転属となり、昭和20年5月11日百里原海軍航空隊に移るまでの約8ヶ月というごく短いものであったが、外出が許可されるとしばしば別府の街を訪れ、亀川では「かじや」、別府の本屋、千疋屋、散髪屋などに顔を出していた。ある時には、別府の伝統工芸である黄楊細工を売っている店に立ち寄り、出水海軍航空隊にいた頃に心寄せた女性に黄楊のくしを買って郵送を頼んだりした。
 〈どこでもよろこんで迎えてくれる。ビールがうまい、夏みかんがうまい、さわらの刺身がこよなくうまい〉
 と記していたが、訪れた先で同期の者の消息を訊ねられるたびに、彼らの最後を話さねばならない心苦しさを感じた。ある人は、聞きながら涙を浮かべて黙ってしまい、また散髪屋のおかみさんは「もうこれ以上貴方がたに死んでもらいたくない。何とかして戦争をおわりにすることは出来ないんでしょうか」と言ったということが書かれていた。
 ひさしぶりの外出はまことに楽しかったが、日が暮れて帰途につくときは、いつの外出のときもそうであったように、何ともいえぬさみしさに取りつかれてしまい、道の石崖から這い出す川蟹と戯れたりした。
 昭和19年11月22日の日記は、〈日曜日課、外出。昨夜思いがけず、父が別府に来ていて面会したいという電話があり、真っ直ぐに日名子旅館におもむく〉という書き出しで始まっていた。
 そこで最初に聞かされのは、7月下旬にテニヤンで部隊とともに玉砕を遂げた兄の死であった。父親は手紙に書く気がせず、さみしさに、家業の都合をつけて息子に会いに来た様子であった。公報が入った時、母親はかなり取り乱したという。その話を聞かされながら、吉野士官は、自分が戦死した場合の母の気持ちを想像した。部屋のちがい棚の上には陸軍上等兵の兄の写真が立て掛けてあった。
 ひとりで湯に入ったが、よく行く亀川の旅館とちがって綺麗な浴室で、底から湧き出る豊富な美しい澄んだいでゆに浸かりながら、
 〈自分は此の世を去った人間が、天国のようなところでもう一度人の形をそなえて暮らしているということは、信じることが出来ないが、その霊魂や肉体が宇宙のなかに還元され、水になったり霧になったり、山の木の葉になったりして、大自然のなかをめぐっているだろうということは、かんがえる事が出来る。亡くなって4ケ月、海の潮のながれのなかにも、秋の雲のうえにも、此の温泉の湯のなかにも、兄はもう還っている〉
 と思いながら、浴槽のなめらかな湯を、いつまでもかきまわしていた。
 部屋ではすでに膳が運ばれていて、父親は持参の桜正宗をつけさせ、海老の天ぷらで、戦死した息子の写真を前に盃を傾けていた。ここの旅館の人からは「坊ちゃん」とよばれ、幾分気恥ずかしい思いがしたが、受持ちの女中さんの顔立ち、動作が黄楊のくしを送った女性にきわめて似通っていたので、少し酒がまわった時、父に甘えるような気持ちで言い出しかけたが、
 〈もし、戦争が終わってこうして父と食事をしているのだったら、自分も切り出したであろうし、父もおそらく喜んで聞いてくれるのであろうが〉
 と思って話すのを止した。
 その席で父親は、家に伝わる関孫六の弟子・兼六作の短刀を息子に与えた。
 食後、父と子は聖人の浜(現在の上人ケ浜であろう)の方へ散歩に出たが、その時の情景が次のように書かれていた。
 〈下駄の感触が素足に快い。別府の裏山はすっかり紅葉していて、美しい樹々のあいだに此所かしこ、白い湯けむりが立ち昇っていた。海は明るく、真っ蒼に澄んで、静かな波が岩をひたしては干いて行く。ところどころ、浜にも湯が湧き出て、岩間を黄に染めて海へながれ込んでいる〉。
 その時、父親は、
 「お前が未だ生まれなかった頃、文吉(戦死した長男)をつれてお母さんと別府へ来たことがあるが、あの流川の通りで、あいつが玩具を買ってくれといって道に坐って動かなくなったことがあった」
 と語り、さみしげに笑っていた。
 3時頃日名子へ引きかえし、又湯に入り、夕食を終えると、明朝の船で帰るという父親と別れ、帰隊した。
 その夜は五日月で夜汽車のなかは暗かったが、3人の同期生が乗っていて、兄の死を聞いてなぐさめてくれた、とその日の日記は終わっていた。
 父親に言い出せなかった女性に関しては、出撃待機中に書いた、昭和20年7月9日付けの両親に宛てた遺書の最後に、
 〈死後片づけていただきたいような問題は何もありません。金銭関係、女性関係、全然ありません。蔵書は適当にしてください。ただ出水にいたころ世話になった人、熊本県水俣の深井蕗子、此の人のことを、もし生きていたら私は申し出たかもしれません。しかし、先方は何も知らず、その後文通もないのですから御通知は御無用と思います。突っ込む時、父上母上の面影と一緒に胸に浮かべるかも知れないので、一寸だけお断りをしておくのです。いま8時半です。走り書きで、さようなら〉と書き添えられていた。
 吉野次郎士官が別府の日名子旅館で父と会った昭和19年11月22日は、くしくも私の14歳の誕生日であった。当時、中学2年生であった私は、その年の9月から学徒勤労動員で軍需工場に通い、兵器生産に励んでいた。
 翌年の8月6日、広島市に原子爆弾が投下されて私は被爆した。同じ9日には長崎に原爆が投下され、15日、日本は無条件降伏したが、吉野士官はその一ヶ月前に、
 雲こそ吾墓標
 落暉よ碑銘をかざれ。
 この2行の詩を友人に遺して、散った。
 (作家。別府市在住)